冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。
磨き上げられたのは、イタリア仕込みの守備センス。やがてフットボーラー小笠原はマイナーチェンジを完成させ、さらなる進化を遂げるのだ。
「それまでは攻撃的な選手としてやってたけど、メッシーナで初めてボランチ気味にプレーした。強いチームじゃないから守備の時間がすごく長いわけですよ。いかに相手からボールを奪うかが一番大事なところで、とにかくそこの強さを求められた。
守備で魅せるような選手じゃなかったじゃない? それまでの俺は。でもメッシーナではすごく学んで、鹿島に戻ってきてからもいちばん表現したいのがそこだった。相手からボールを奪うってところ。得るものが多かったし、本当に濃い時間だった」
本音を言えばもっと欧州でプレーしたかったが、メッシーナがセリエBに降格し、そもそも鹿島とはレンタル契約だった。「ほとんど試合に出れてなかった俺に、(鹿島は)帰ってこいと言ってくれた。素直に嬉しかったよね」と、復帰を決意した。
「もしスペインとかでプレーしてたら、本来の攻撃なところに磨きを掛けられたのかもしれないけど、オファーがなかったからね。でも、イタリアだからこそ学べたものがある。俺に足りない守備力を高めてくれたし、人間としても成長させてくれた。いいチームに行ったのかなって思うね、いまとなれば」
イタリア南部の島には、奥さんと娘たちも連れていき、ともに充実した日々を過ごした。
「ぜんぜん苦じゃない。むしろ楽しかった。町ゆくひとには、ヤナギ(柳沢敦)さんもちょっと前までいたから、冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。食事はおいしいし、言葉を覚えて買い物に行ったり、いろんなとこ旅行に行ったり。子どもは地元の幼稚園に入ったんだけど、最初は泣きながら通ってたのが、いつしかイタリア語で『水ちょうだい』とか言えるようになったりね。家族みんなで頑張って成長しながら、言ってみれば、苦労を楽しめた」
帰国して鹿島に戻ると、愛着のあった8番は野沢拓也が着けていた。そこで小笠原はなにを思ったか、背番号40を選ぶ。以後、現在に至るまでずっと、チームにおける“最大ナンバー”が代名詞だ。
「何番にしようかなーと。なんか一桁って誰かのイメージがあるじゃない。だから誰も付けたことがない番号がいいなって。海外だと99番とかもあったから『マックス選べるの?』って訊いたらダメで、40までだって言われた。だから、深い意味とかまるでない(笑)」
<♯6につづく>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※7月17日配信予定の次回は、フットボーラー小笠原満男の真髄と、その内面にぐいっと切り込みます。深すぎるサッカー観に迫りつつ、東北人魂の「これから」、引き際のビジョン、さらにはサッカーを始めた実息への想いまで──。最終回も、ぜひお楽しみに!
―――――――――――◆―――――――――◆――――――――――――
PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/508試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年7月9日現在。
「それまでは攻撃的な選手としてやってたけど、メッシーナで初めてボランチ気味にプレーした。強いチームじゃないから守備の時間がすごく長いわけですよ。いかに相手からボールを奪うかが一番大事なところで、とにかくそこの強さを求められた。
守備で魅せるような選手じゃなかったじゃない? それまでの俺は。でもメッシーナではすごく学んで、鹿島に戻ってきてからもいちばん表現したいのがそこだった。相手からボールを奪うってところ。得るものが多かったし、本当に濃い時間だった」
本音を言えばもっと欧州でプレーしたかったが、メッシーナがセリエBに降格し、そもそも鹿島とはレンタル契約だった。「ほとんど試合に出れてなかった俺に、(鹿島は)帰ってこいと言ってくれた。素直に嬉しかったよね」と、復帰を決意した。
「もしスペインとかでプレーしてたら、本来の攻撃なところに磨きを掛けられたのかもしれないけど、オファーがなかったからね。でも、イタリアだからこそ学べたものがある。俺に足りない守備力を高めてくれたし、人間としても成長させてくれた。いいチームに行ったのかなって思うね、いまとなれば」
イタリア南部の島には、奥さんと娘たちも連れていき、ともに充実した日々を過ごした。
「ぜんぜん苦じゃない。むしろ楽しかった。町ゆくひとには、ヤナギ(柳沢敦)さんもちょっと前までいたから、冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。食事はおいしいし、言葉を覚えて買い物に行ったり、いろんなとこ旅行に行ったり。子どもは地元の幼稚園に入ったんだけど、最初は泣きながら通ってたのが、いつしかイタリア語で『水ちょうだい』とか言えるようになったりね。家族みんなで頑張って成長しながら、言ってみれば、苦労を楽しめた」
帰国して鹿島に戻ると、愛着のあった8番は野沢拓也が着けていた。そこで小笠原はなにを思ったか、背番号40を選ぶ。以後、現在に至るまでずっと、チームにおける“最大ナンバー”が代名詞だ。
「何番にしようかなーと。なんか一桁って誰かのイメージがあるじゃない。だから誰も付けたことがない番号がいいなって。海外だと99番とかもあったから『マックス選べるの?』って訊いたらダメで、40までだって言われた。だから、深い意味とかまるでない(笑)」
<♯6につづく>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※7月17日配信予定の次回は、フットボーラー小笠原満男の真髄と、その内面にぐいっと切り込みます。深すぎるサッカー観に迫りつつ、東北人魂の「これから」、引き際のビジョン、さらにはサッカーを始めた実息への想いまで──。最終回も、ぜひお楽しみに!
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/508試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年7月9日現在。