アルゼンチンからは2大会合わせて6人
◇1986年メキシコ大会
優勝:アルゼンチン
セルヒオ・バティスタ(MF/PJM/1993-94・コーチ/福岡/1995・コーチ&監督代行/鳥栖F/1996)
エクトル・エンリケ(MF/PJM/1994)
ペドロ・パスクリ(FW/PJM/1994)
カルロス・パチャメ(ヘッドコーチ/福岡/1996・監督/福岡/1997)
1987年に創設されたPJMフューチャーズ(後の鳥栖フューチャーズで97年に解散)が地域リーグからプロリーグへ向けて上昇していくなかで、あのディエゴ・マラドーナの招聘を本気で狙い、ひと足先に弟のウーゴを獲得するなど、夢のある補強を展開していった。
86年大会では中盤をカバーした、髭がトレードマークのバティスタ(後にアルゼンチン代表にも就任)、「5人抜きゴール」の前にマラドーナにパスを出したエンリケ(10年南アフリカ大会ではマラドーナ監督のアシスタント)、そしてサブながら貴重な決勝点を挙げたりもしたパスクリも、その流れから日本に到来した。
盟友カルロス・ビラルド監督のアシスタントコーチとして86年大会の優勝に貢献したパチャメは、93年から日本サッカー協会のアドバイザーとして招聘され、96年にアビスパ福岡で清水秀彦監督のアシスタントを務め、翌年に監督としてチームを率いた。
優勝:アルゼンチン
セルヒオ・バティスタ(MF/PJM/1993-94・コーチ/福岡/1995・コーチ&監督代行/鳥栖F/1996)
エクトル・エンリケ(MF/PJM/1994)
ペドロ・パスクリ(FW/PJM/1994)
カルロス・パチャメ(ヘッドコーチ/福岡/1996・監督/福岡/1997)
1987年に創設されたPJMフューチャーズ(後の鳥栖フューチャーズで97年に解散)が地域リーグからプロリーグへ向けて上昇していくなかで、あのディエゴ・マラドーナの招聘を本気で狙い、ひと足先に弟のウーゴを獲得するなど、夢のある補強を展開していった。
86年大会では中盤をカバーした、髭がトレードマークのバティスタ(後にアルゼンチン代表にも就任)、「5人抜きゴール」の前にマラドーナにパスを出したエンリケ(10年南アフリカ大会ではマラドーナ監督のアシスタント)、そしてサブながら貴重な決勝点を挙げたりもしたパスクリも、その流れから日本に到来した。
盟友カルロス・ビラルド監督のアシスタントコーチとして86年大会の優勝に貢献したパチャメは、93年から日本サッカー協会のアドバイザーとして招聘され、96年にアビスパ福岡で清水秀彦監督のアシスタントを務め、翌年に監督としてチームを率いた。
◇1982年スペイン大会
優勝国:イタリア
ダニエレ・マッサーロ(FW/清水/1995-96)
フィオレンティーナ所属時、21歳で世界王者の一員となったマッサーロだが、この時は出番がなかった。86年以降、長くアッズーリから遠ざかっていたが、ミランでの活躍が認められて94年に復帰、同年のアメリカ大会では決勝進出に貢献した。しかし、ブラジル戦でのPK戦では、4番手で失敗という苦い思いを味わった。
ミランでセリエA4回、チャンピオンズ・リーグ(カップ時代含む)2回、トヨタカップ2回の優勝を飾った後、95年にライバルチームであるインテルからの誘いを蹴って清水に加入。同年9月の名古屋戦で、左サイドでサントスのパスをダイレクトボレーで叩き、ゴール右隅に決めたゴールは、今でも語り草となっている。
◇1978年アルゼンチン大会
優勝国:アルゼンチン
オズワルド・アルディレス(監督/清水/1996-98・監督/横浜FM/1999-2001・監督/東京V/2003-05・監督/町田/2012)
ホルヘ・マリオ・オルギン(監督/福岡/1995)
中盤で攻撃を司り、チャンスを作るテクニシャンで、トッテナムでも「オジー」のニックネームでファンに愛されたアルディレスは、96年に盟友スティーブ・ペリマンを伴って清水に到来すると、それから日本では4チームを率い、ステージ優勝、ナビスコカップ、そして天皇杯優勝を1度ずつ成し遂げた。
78年大会ではSBとして活躍したオルギンは、85年のトヨタカップでもアルヘンティノスの一員としてミシェル・プラティニ擁するユベントスとも対戦。95年、監督として福岡ブルックス(現アビスパ)を率い、ウーゴ、ペドロ・トログリオらアルゼンチン人助っ人を駆使してJFL制覇を果たし、初のJ昇格へチームを導いた。