74年と90年で対照的な結果となったオランダ

主力の半分以上がアヤックス所属、もしくは元所属選手だった74年、“急造チーム”は見事な組織力で歴史を変えた。一方、オランダ・トリオらスター揃いの90年大会はうまくいかず……これ以降、たびたびこの国には“お家騒動”が勃発していった。 (C) Getty Images
時間がないなか、ミケルス監督は1971年まで率いたアヤックスをチームの骨子とし、ここにバルセロナでプレーするクライフやフェイエノールトの中心選手加えてチームを急造。クライフもアヤックスが71~73年でチャンピオンズ・カップ(現リーグ)を3連覇した際の中心選手であり、すぐにチームは機能した。
アヤックス時代に戦術の基礎は出来上がっていたことで、ミケルス監督は徹底したフィジカルトレーニングを敢行。それは大会に入っても続き、ゆえに運動量が要求されるトータルフットボールは最後まで破綻することなく、対戦相手を凌駕していった。
それでもタイトルを手にできなかったオランダが、初めて栄冠を掴んだのが1988年の欧州選手権(EURO)。ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトのトリオに加え、ロナルド・クーマンらを擁する欧州王者は、当然、2年後のイタリアW杯で優勝候補に挙げられていた。
しかし、大会開幕を目前に控えた段階でも、このチームには監督が存在しなかった。88年より指揮権を握ってきたティース・リブレクツの守備的な戦術を選手たちが嫌い、大会開催年になってサッカー協会に解任を要求。そこから監督の座は空位となっていたのだ。
5月になって協会はレオ・ベーンハッカーを起用。85年にも代表を指揮し、レアル・マドリーなどクラブでの経験も十分な名将だったが、クライフの登用を強く望んでいたファン・バステンらは失望し、チームは一枚岩になれず、優勝候補は1勝も挙げられずに決勝トーナメント1回戦で姿を消した。
またこの大会では、ベルギーも90年2月に監督が交代。89年から監督を務めていたワルター・メーウスが解任され、70年代からチームを指揮し、80年代のベルギーの台頭と快進撃に貢献した名将ギ・ティスが復帰。本大会ではエンツォ・シーフォを中心にした好チームとして高い評価を受けた(ベスト16)。
これ以外にも大会創世記から70年代までは、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、スペインといった主要国においても、大会が間近になった段階での監督人事は行なわれている。
ちなみにマンチェスター・ユナイテッドのレジェンド、サー・アレックス・ファーガソンは86年メキシコW杯の欧州予選で、最終戦の終盤に心臓麻痺を起こして急逝したジョック・ステインの後を受けてスコットランド代表監督に昇格、85年11月にプレーオフで初陣を飾っている(本大会ではグループステージ敗退)。
言うまでもないが、状況など全てが異なるため、この事例は何ら、今の日本を勇気づけるものではない。あしからず。
アヤックス時代に戦術の基礎は出来上がっていたことで、ミケルス監督は徹底したフィジカルトレーニングを敢行。それは大会に入っても続き、ゆえに運動量が要求されるトータルフットボールは最後まで破綻することなく、対戦相手を凌駕していった。
それでもタイトルを手にできなかったオランダが、初めて栄冠を掴んだのが1988年の欧州選手権(EURO)。ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトのトリオに加え、ロナルド・クーマンらを擁する欧州王者は、当然、2年後のイタリアW杯で優勝候補に挙げられていた。
しかし、大会開幕を目前に控えた段階でも、このチームには監督が存在しなかった。88年より指揮権を握ってきたティース・リブレクツの守備的な戦術を選手たちが嫌い、大会開催年になってサッカー協会に解任を要求。そこから監督の座は空位となっていたのだ。
5月になって協会はレオ・ベーンハッカーを起用。85年にも代表を指揮し、レアル・マドリーなどクラブでの経験も十分な名将だったが、クライフの登用を強く望んでいたファン・バステンらは失望し、チームは一枚岩になれず、優勝候補は1勝も挙げられずに決勝トーナメント1回戦で姿を消した。
またこの大会では、ベルギーも90年2月に監督が交代。89年から監督を務めていたワルター・メーウスが解任され、70年代からチームを指揮し、80年代のベルギーの台頭と快進撃に貢献した名将ギ・ティスが復帰。本大会ではエンツォ・シーフォを中心にした好チームとして高い評価を受けた(ベスト16)。
これ以外にも大会創世記から70年代までは、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、スペインといった主要国においても、大会が間近になった段階での監督人事は行なわれている。
ちなみにマンチェスター・ユナイテッドのレジェンド、サー・アレックス・ファーガソンは86年メキシコW杯の欧州予選で、最終戦の終盤に心臓麻痺を起こして急逝したジョック・ステインの後を受けてスコットランド代表監督に昇格、85年11月にプレーオフで初陣を飾っている(本大会ではグループステージ敗退)。
言うまでもないが、状況など全てが異なるため、この事例は何ら、今の日本を勇気づけるものではない。あしからず。