国見に0-8…中央をスコンスコンにやられてました
インターハイ、全日本ユース(高円宮杯プレミアリーグの前身)、そして高校選手権。同年度にこの3つのタイトルを獲った唯一のチームがいる。本山雅志、宮原裕司、古賀誠史、金古聖司、手島和希、千代反田充らを擁し、1997年度の高校サッカー界を疾風のごとく駆け抜けた東福岡、伝説の“赤い彗星”だ。あれからちょうど20年が経つ。
当サイトで連載中の『黄金は色褪せない』で本山を取材するため、北九州に足を運んだ。その前日、福岡空港から目と鼻の先にある東福岡の校舎とグラウンドも訪問。それも20年ぶりだった。当時はもちろん立派な人工芝のピッチなどなく、3冠チームはまだ野球部と交代でグラウンドを使い、それ以外の時間は裏の駐車場で球回しなどをしていた。「あれ以来? そうか。それは雲泥の差でしょう。ハハハ」と笑いながら、志波さんが増改築の変遷を説明してくれた。
現在はご存知の通り、森重潤也さんが監督を務め、志波先生は総監督の立場にある。東福岡はこの20年間強の間、つねに福岡県内随一の強豪として君臨し、全国大会に出場すれば優勝候補の一角を担ってきた。明確なのは、小島や山下、生津らが最終学年で活躍したあの年が分岐点だったということ。最新のチームにも受け継がれている4-1-4-1システムが完成を見たのも、まさにあの1995年度だ。
総監督はヒガシの代名詞がいかにして形成されたのかを、まず教えてくれた。
「それまでは4-4-2でやっていた。シングルボランチがいて、両ワイドとシャドーがいる中盤だから、いわゆるダイヤモンド型ですよ。ただ、両サイドは目いっぱいワイドに張らせてたから、ちょっとイビツな形だったかな。実は僕自身が現役時代、ウイングのプレーヤーで、サイドでの仕掛けというものに強い思い入れがあったんです。攻撃においては非常に重要なアイテム。相手のディフェンスを広げる、寄せてくる、そうすれば確実に外れる。守備というのは幅が狭ければ狭いほど守りやすいから、やはり広げるのが大事なわけです。ただ、攻撃はいいんだけど、こっちの守備のほうがなかなか上手く行かない。中央のところをスコンスコンにやられてましたよ」
県内ではそれで勝てても、全国に出て行くと綻びが出た。点を取れるが失点も多いチームで、1993年度の選手権では初めて準決勝まで進出したものの、国見に0-8の大敗を喫している。守備の弱点をことごとく突かれ、完全にサンドバック状態だった。
当サイトで連載中の『黄金は色褪せない』で本山を取材するため、北九州に足を運んだ。その前日、福岡空港から目と鼻の先にある東福岡の校舎とグラウンドも訪問。それも20年ぶりだった。当時はもちろん立派な人工芝のピッチなどなく、3冠チームはまだ野球部と交代でグラウンドを使い、それ以外の時間は裏の駐車場で球回しなどをしていた。「あれ以来? そうか。それは雲泥の差でしょう。ハハハ」と笑いながら、志波さんが増改築の変遷を説明してくれた。
現在はご存知の通り、森重潤也さんが監督を務め、志波先生は総監督の立場にある。東福岡はこの20年間強の間、つねに福岡県内随一の強豪として君臨し、全国大会に出場すれば優勝候補の一角を担ってきた。明確なのは、小島や山下、生津らが最終学年で活躍したあの年が分岐点だったということ。最新のチームにも受け継がれている4-1-4-1システムが完成を見たのも、まさにあの1995年度だ。
総監督はヒガシの代名詞がいかにして形成されたのかを、まず教えてくれた。
「それまでは4-4-2でやっていた。シングルボランチがいて、両ワイドとシャドーがいる中盤だから、いわゆるダイヤモンド型ですよ。ただ、両サイドは目いっぱいワイドに張らせてたから、ちょっとイビツな形だったかな。実は僕自身が現役時代、ウイングのプレーヤーで、サイドでの仕掛けというものに強い思い入れがあったんです。攻撃においては非常に重要なアイテム。相手のディフェンスを広げる、寄せてくる、そうすれば確実に外れる。守備というのは幅が狭ければ狭いほど守りやすいから、やはり広げるのが大事なわけです。ただ、攻撃はいいんだけど、こっちの守備のほうがなかなか上手く行かない。中央のところをスコンスコンにやられてましたよ」
県内ではそれで勝てても、全国に出て行くと綻びが出た。点を取れるが失点も多いチームで、1993年度の選手権では初めて準決勝まで進出したものの、国見に0-8の大敗を喫している。守備の弱点をことごとく突かれ、完全にサンドバック状態だった。