ウディネーゼはスモールクラブではない
——なぜウディネーゼを選んだんですか。いわゆるビッグチームではありませんが。
その質問は当時も散々されたよ。答は決まっている。私にとって、ウディネーゼは決してスモールクラブではないんだ。当時のクラブの目標は、イタリアサッカーの頂点に立つことで、それに向かって私もベストを尽くそうと思えたんだ。
私はこれまで常に勝者のメンタリティーを備えたクラブでプレーしてきた。ときには勝利への意欲や執着が感じられない選手もいたが、私は、選手と監督とクラブが同じ方向を向いて、タイトル獲得を本気で信じるべきだという考え方だ。
ウディネーゼでの2年間で、私たちはタイトルを勝ち取ることはできなかったが、常に希望は抱いていた。当時のセリエAには浪漫があったんだ。同じ“プロビンチャ”のヴェローナは、美しいチームを作り上げ、84-85シーズンに誰もが驚くスクデットを獲得した。クラブの規模に関係なく、チャンピオンになれるということを彼らが教えてくれんだ。
私たちも最初のシーズン(83-84)は、もっと上に行くつもりだったし、その準備もできていた。ただ、想定外の問題によって、足取りが乱れてしまった。マネージングディレクターのフランコ・ダル・チンが、ランベルト・マッツァ会長との諍いが原因でクラブを去ったんだ。
当時、ウディネーゼの強化プランはダル・チン主導で進められていて、私をはじめとする多くの選手は、彼の意向でチームに加わっていた。それだけに選手との関係は良好だった。最悪だったのが退任のタイミングさ。
3位と好位置につけていたのに、この件をきっかけにチームは失速。さらに、終盤には私の怪我も重なって、最終的に9位に沈んだ。歴史的な好スタートを切ったにもかかわらず、欧州行きを逃したのは痛恨だった。個人としては19ゴールを奪い、得点王のプラティニとはわずか1ゴール差だった。
その質問は当時も散々されたよ。答は決まっている。私にとって、ウディネーゼは決してスモールクラブではないんだ。当時のクラブの目標は、イタリアサッカーの頂点に立つことで、それに向かって私もベストを尽くそうと思えたんだ。
私はこれまで常に勝者のメンタリティーを備えたクラブでプレーしてきた。ときには勝利への意欲や執着が感じられない選手もいたが、私は、選手と監督とクラブが同じ方向を向いて、タイトル獲得を本気で信じるべきだという考え方だ。
ウディネーゼでの2年間で、私たちはタイトルを勝ち取ることはできなかったが、常に希望は抱いていた。当時のセリエAには浪漫があったんだ。同じ“プロビンチャ”のヴェローナは、美しいチームを作り上げ、84-85シーズンに誰もが驚くスクデットを獲得した。クラブの規模に関係なく、チャンピオンになれるということを彼らが教えてくれんだ。
私たちも最初のシーズン(83-84)は、もっと上に行くつもりだったし、その準備もできていた。ただ、想定外の問題によって、足取りが乱れてしまった。マネージングディレクターのフランコ・ダル・チンが、ランベルト・マッツァ会長との諍いが原因でクラブを去ったんだ。
当時、ウディネーゼの強化プランはダル・チン主導で進められていて、私をはじめとする多くの選手は、彼の意向でチームに加わっていた。それだけに選手との関係は良好だった。最悪だったのが退任のタイミングさ。
3位と好位置につけていたのに、この件をきっかけにチームは失速。さらに、終盤には私の怪我も重なって、最終的に9位に沈んだ。歴史的な好スタートを切ったにもかかわらず、欧州行きを逃したのは痛恨だった。個人としては19ゴールを奪い、得点王のプラティニとはわずか1ゴール差だった。
その活躍が目に留まり、シーズン終了後にはビッグクラブを中心に十数件のオファーが届いた。なかにはマドリーやミランなど、真のビッグクラブも含まれていたが、あくまでクラブの意向が絶対で、私に選択権はなかった。
ただ、ウディネーゼで2年目を迎えたことに対して後悔はない。クラブにも、ウディネの街にもうまく馴染めたからね。私はいまでもウディネの人々に愛され、訪問する度に大歓迎を受けている。これは私にとってとても意味のあることだ。
——イタリアでプレーした2年間でもっとも記憶に残っているゲームは?
83-84シーズンのホームのローマ戦かな(83年11月6日)。ローマは前年王者であり、ウディネーゼからすると40年以上も勝ったことのない相手だった。そして、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ、ブルーノ・コンティ、アンチェロッティ、ディ・バルトロメイ……。錚々たる顔ぶれでローマはウディネに乗り込んできた。
誰もが私たちに望みはないと思っていたはずだ。しかし、非常に厳しい戦いの末、満員の観衆の期待をいい意味で裏切り、1-0の勝利を収めたんだ。そして、その唯一のゴールを決めたのが私だった。ウディネーゼのサポーターは熱狂し、地元メディアは何週間もこの勝利について報じ続けた。
イタリア国営放送『RAI』の名物スポーツ番組『ドメニカ・スポルティーバ』は、この試合をセリエA史上最も記憶に残る試合として紹介した。もう一つ忘れられないのが、同じシーズンのサン・シーロでのミラン戦だ(84年1月8日)。ミランもバレージ、タソッティ、フィリッポ・ガッリ、エバーニ、ダミアーニと、ローマに劣らないスターを揃えて
(後編に続く)
※『ワールドサッカーダイジェスト』2025年2月6日号より転載・加筆。
インタビュー●リカルド・セティオン
翻訳●利根川晶子
【著者プロフィール】
リカルド・セティオン(Ricardo SETYON)/1963年8月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。ジャーナリストとして中東戦争やユーゴスラビア紛争などを現地取材した後、社会学としてサッカーを研究。スポーツジャーナリストに転身する。8か国語を操る語学力を駆使し、世界中を飛び回って現場を取材。多数のメディアで活躍する。FIFAの広報担当なども務め、ジーコやカフー、ドゥンガなどとの親交も厚い。スポーツ運営学、心理学の教授として大学で教鞭も執っている。
ただ、ウディネーゼで2年目を迎えたことに対して後悔はない。クラブにも、ウディネの街にもうまく馴染めたからね。私はいまでもウディネの人々に愛され、訪問する度に大歓迎を受けている。これは私にとってとても意味のあることだ。
——イタリアでプレーした2年間でもっとも記憶に残っているゲームは?
83-84シーズンのホームのローマ戦かな(83年11月6日)。ローマは前年王者であり、ウディネーゼからすると40年以上も勝ったことのない相手だった。そして、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ、ブルーノ・コンティ、アンチェロッティ、ディ・バルトロメイ……。錚々たる顔ぶれでローマはウディネに乗り込んできた。
誰もが私たちに望みはないと思っていたはずだ。しかし、非常に厳しい戦いの末、満員の観衆の期待をいい意味で裏切り、1-0の勝利を収めたんだ。そして、その唯一のゴールを決めたのが私だった。ウディネーゼのサポーターは熱狂し、地元メディアは何週間もこの勝利について報じ続けた。
イタリア国営放送『RAI』の名物スポーツ番組『ドメニカ・スポルティーバ』は、この試合をセリエA史上最も記憶に残る試合として紹介した。もう一つ忘れられないのが、同じシーズンのサン・シーロでのミラン戦だ(84年1月8日)。ミランもバレージ、タソッティ、フィリッポ・ガッリ、エバーニ、ダミアーニと、ローマに劣らないスターを揃えて
(後編に続く)
※『ワールドサッカーダイジェスト』2025年2月6日号より転載・加筆。
インタビュー●リカルド・セティオン
翻訳●利根川晶子
【著者プロフィール】
リカルド・セティオン(Ricardo SETYON)/1963年8月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。ジャーナリストとして中東戦争やユーゴスラビア紛争などを現地取材した後、社会学としてサッカーを研究。スポーツジャーナリストに転身する。8か国語を操る語学力を駆使し、世界中を飛び回って現場を取材。多数のメディアで活躍する。FIFAの広報担当なども務め、ジーコやカフー、ドゥンガなどとの親交も厚い。スポーツ運営学、心理学の教授として大学で教鞭も執っている。