子どもたちに運動する機会を――。2001年にJドリームは生まれた
一度、日本に戻ってビザを準備して、川合は1999年12月から本格的にオランダに住み始めた。すると「日本人学校の運動会に行っても面白くない。子どもたちが走って転ぶことすらない」という話を聞いた。当時の日本人の子たちは運動する機会がまったくなく、足が絡まって転がるほど全力で走ることができなかったのだという。放課後も子どもたちはとにかく怪我や病気をさせないと守られていたので、外で遊ぶこともできなかった。
「子どもたちに運動する機会を作ってほしい」との強い要望があり、大使館や日本人学校からもサポートを受け、2001年、小学校低学年向けサッカークラブ、Jドリームが発足した。
最初から屋外で活動するのはハードルが高すぎて、体育館で活動することから始めた。
「まったく運動のできない子どもたちにボールをいきなり与えると、ボールが扱えないから運動の負荷が減ってしまう。だから鬼ごっこ、でんぐり返し、側転とか、ともかく運動量を重視した。だけど彼らは元々運動神経が悪かったわけではなく、運動する機会がなかっただけだった。子どもは覚えるのが早いからサッカーもすぐに覚えた」
「子どもたちに運動する機会を作ってほしい」との強い要望があり、大使館や日本人学校からもサポートを受け、2001年、小学校低学年向けサッカークラブ、Jドリームが発足した。
最初から屋外で活動するのはハードルが高すぎて、体育館で活動することから始めた。
「まったく運動のできない子どもたちにボールをいきなり与えると、ボールが扱えないから運動の負荷が減ってしまう。だから鬼ごっこ、でんぐり返し、側転とか、ともかく運動量を重視した。だけど彼らは元々運動神経が悪かったわけではなく、運動する機会がなかっただけだった。子どもは覚えるのが早いからサッカーもすぐに覚えた」
そのうち高学年の子どもたちも「自分もサッカーしたい」と言い出し、メンバーが40人くらいになった。体育館では手狭になったため、川合は自身がプレーしていたRKAVICというクラブに頼んで、日曜日の朝をJドリームのトレーニングに使えるようにした。
「子どもたちが運動できるようになってくると、やっぱり試合をしてオランダ人と交流させてあげたかった」
今度は父親たちが「我々もサッカーをしたい」と言いだした。こうして06年に発足したのがU-50チーム(現在は“ONEチーム”)だ。オランダらしく、ポジションをしっかり取りながらインサイドキックでしっかりパスを繋ぐサッカーは、それまでプレーしたことのなかった人にとっても馴染みやすいものだった。
また「なんで、あそこでパスを出さないんだ!」などと叱り飛ばしていたお父さんたちも、自身がプレーすることによってその難しさ、その深さを知り、家に帰ってから親子でキチンとしたサッカー談義をするようになった。U-50チームのお父さんたちは、週末の子どもたちのトレーニングのサポートコーチとしても活躍している。
「子どもたちが運動できるようになってくると、やっぱり試合をしてオランダ人と交流させてあげたかった」
今度は父親たちが「我々もサッカーをしたい」と言いだした。こうして06年に発足したのがU-50チーム(現在は“ONEチーム”)だ。オランダらしく、ポジションをしっかり取りながらインサイドキックでしっかりパスを繋ぐサッカーは、それまでプレーしたことのなかった人にとっても馴染みやすいものだった。
また「なんで、あそこでパスを出さないんだ!」などと叱り飛ばしていたお父さんたちも、自身がプレーすることによってその難しさ、その深さを知り、家に帰ってから親子でキチンとしたサッカー談義をするようになった。U-50チームのお父さんたちは、週末の子どもたちのトレーニングのサポートコーチとしても活躍している。