前を向くきっかけを取り戻す時には、いつも玉田圭司がいた
翌年は、層の厚みが増した前線において、玉田選手は開幕からスーパーサブとしての立ち位置が続いた。初先発は第20節・東京V戦まで待たねばならなかった。それでも、チームが4戦勝ちなしと苦しむ中で先発した第28節・山口戦で、2-0の勝利に貢献。この試合は16シーズンの中でも本当に大きな一戦で、分岐点にもなった。そこから1トップで先発する試合も続き、出番を減らした16年も、先発したリーグ戦では7勝2分1敗と高い勝率を誇った。最終的に15年と同じ4位で終わり、再びJ1昇格プレーオフに挑むことになったC大阪だが、16年も彼の果たした役割は小さくなかった。2度目のJ1昇格プレーオフは無事に勝ち抜き、J1昇格を達成。1年前は涙に暮れた玉田選手にも笑顔が広がり、こちらもホッとした気持ちになった。
振り返ると、苦しかったJ2での2年間、前を向くきっかけを取り戻す時には、いつも玉田圭司がいた。J2を戦う上での“希望の光”。加入が決まった瞬間に感じた直感は、間違っていなかった!!
振り返ると、苦しかったJ2での2年間、前を向くきっかけを取り戻す時には、いつも玉田圭司がいた。J2を戦う上での“希望の光”。加入が決まった瞬間に感じた直感は、間違っていなかった!!
16年のシーズン終盤には「(第27節・横浜FC戦で)36歳でしょ? まだまだ(やれる)じゃん」と三浦知良選手に言葉をかけられ、「そんな何気ない一言で気持ちが高まった」というエピソードも明かしてくれました。常に自信を崩さず、サッカーに対する向上心を持っていた玉田選手。技術とロマンがたっぷり詰まったその左足に、私たちは何度も魅了されました。
16年のシーズン終了後。サポーター有志によって開かれた舞洲グラウンドでの“送別会”では、100人近くに作られた花道を歩き、拍手で見送られた後、「幸せだね」と照れ笑いを浮かべながらクラブハウスに引き上げてきた玉田選手。そんな彼に、「2年間、ありがとうございました。J1で一緒に戦いたかったです」と告げると、「そうだね。残念だけど、セレッソのことはこれからも応援しているからさ。それに、またどこかで会えるよ」と笑顔で返してくれました。湿っぽさはなく、屈託のない表情で。それが、C大阪で接した最後の姿です。同い年ということもあり、記者としても思い入れの強い選手。タマさんと戦った2年間は、C大阪にとっても、かけがえのない記憶として残り続けます。
取材・文●小田尚史(サッカーライター)
16年のシーズン終了後。サポーター有志によって開かれた舞洲グラウンドでの“送別会”では、100人近くに作られた花道を歩き、拍手で見送られた後、「幸せだね」と照れ笑いを浮かべながらクラブハウスに引き上げてきた玉田選手。そんな彼に、「2年間、ありがとうございました。J1で一緒に戦いたかったです」と告げると、「そうだね。残念だけど、セレッソのことはこれからも応援しているからさ。それに、またどこかで会えるよ」と笑顔で返してくれました。湿っぽさはなく、屈託のない表情で。それが、C大阪で接した最後の姿です。同い年ということもあり、記者としても思い入れの強い選手。タマさんと戦った2年間は、C大阪にとっても、かけがえのない記憶として残り続けます。
取材・文●小田尚史(サッカーライター)