中学3年のときに一度サッカーを辞め、高校に入ってもサッカー部に入らなかった
10月21日、45歳の鉄人・土屋征夫が現役引退を発表した。
積み重ねたキャリアは25年。高校卒業後、ブラジルに渡って20歳でプロキャリアをスタートさせ、1997年にヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に練習生として入団。その後、6つのクラブを渡り歩き、キャリア終盤の2年間は関東リーグ1部の東京23FCでプレーした。
Jリーグのみならず、カテゴリーをいわゆる“J5”まで下げてまで現役にこだわり続けてきた男はなぜ、今年でスパイクを脱ぐ決断を下したのか。
「もちろん、欲を言えば、ずっと現役でいたかったんですが、39歳のときに負傷した古傷の左膝の腫れもあって、身体がキツくなってきて……。だから、実は今シーズンが始まる前に、奥さんだけには今年で最後にしようと思うって伝えたんですよ。そうしたら、ここまでよく頑張ってきたねって言ってくれて。うれしかったですね」
まさに老体にムチを打ちながら、土屋はラストシーズンを戦い抜いた。クラブは優勝争いに絡むことができなかったものの(最終順位は8位)、チーム最年長DFは試合を終わらせる、いわゆるクローザーとしてピッチに立ち続けた。そして9月21日、リーグ最終戦となった横浜猛蹴との試合後、土屋はチームメイトに今シーズン限りで引退することを報告。1か月後、クラブのホームページで公表した。
「本当は、引退発表するつもりはなかったんですよ。でも、今なにしてるの?っていろんな人たちから言われて、いちいち答えるのが大変だなって思って発表することにしたんです(笑)。でもその翌日、大学でサッカーをやっている長男・翔からすごい長いメールが来てね……。『長い間お疲れさまでした』って。まさか、そんなメールくれるとは思ってなかったんで、もう号泣でした。あとは親父に伝えたかったですね。もう亡くなってしまったんですが、僕のサッカー人生は、親父がいなかったら、なにも始まらなかった。高校卒業してブラジル留学させてもらってプロになれたんで。感謝しかないですよ。僕にとって神ですね」
積み重ねたキャリアは25年。高校卒業後、ブラジルに渡って20歳でプロキャリアをスタートさせ、1997年にヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に練習生として入団。その後、6つのクラブを渡り歩き、キャリア終盤の2年間は関東リーグ1部の東京23FCでプレーした。
Jリーグのみならず、カテゴリーをいわゆる“J5”まで下げてまで現役にこだわり続けてきた男はなぜ、今年でスパイクを脱ぐ決断を下したのか。
「もちろん、欲を言えば、ずっと現役でいたかったんですが、39歳のときに負傷した古傷の左膝の腫れもあって、身体がキツくなってきて……。だから、実は今シーズンが始まる前に、奥さんだけには今年で最後にしようと思うって伝えたんですよ。そうしたら、ここまでよく頑張ってきたねって言ってくれて。うれしかったですね」
まさに老体にムチを打ちながら、土屋はラストシーズンを戦い抜いた。クラブは優勝争いに絡むことができなかったものの(最終順位は8位)、チーム最年長DFは試合を終わらせる、いわゆるクローザーとしてピッチに立ち続けた。そして9月21日、リーグ最終戦となった横浜猛蹴との試合後、土屋はチームメイトに今シーズン限りで引退することを報告。1か月後、クラブのホームページで公表した。
「本当は、引退発表するつもりはなかったんですよ。でも、今なにしてるの?っていろんな人たちから言われて、いちいち答えるのが大変だなって思って発表することにしたんです(笑)。でもその翌日、大学でサッカーをやっている長男・翔からすごい長いメールが来てね……。『長い間お疲れさまでした』って。まさか、そんなメールくれるとは思ってなかったんで、もう号泣でした。あとは親父に伝えたかったですね。もう亡くなってしまったんですが、僕のサッカー人生は、親父がいなかったら、なにも始まらなかった。高校卒業してブラジル留学させてもらってプロになれたんで。感謝しかないですよ。僕にとって神ですね」
土屋のサッカーキャリアは、決して順風満帆ではない。5歳でサッカーを始めたが、中学3年のときに一度サッカーを辞めている。高校に行ってもサッカー部には入らず「遊んで暮らしていた」という。しかし高校卒業後、『サッカーでブラジル留学』という広告を見つけて、心機一転、プロのサッカー選手になることを決意したという。
「ブラジルに行きたいって、親父にダメ元でお願いしたんですよ。そうしたら、親父はなんの質問もしないで、『そうか、いいよ、行ってこいよ』って言ってくれたんです。4年間ずっとサッカーしてなくて遊び呆けてて、いきなりブラジルに行きたいって言ってきたら、普通だったら反対するじゃないですか。僕も父親になって分かるんですが、あのとき親父は本当に広い心を持って、僕に接してくれたんだなって。異国の地で何か掴んでくれたらいいと思って、親父はいいよって言ってくれたのかもしれません」