R・マドリーの輝かしき舞台にはいつもディ・ステファノがいた。
7月17日、レアル・マドリーは、先のブラジル・ワールドカップを制したドイツ代表のMF、トニ・クロースの入団会見を行なった。
ワールドカップではMVP級の働きで世界制覇に貢献した、有能な攻撃選手をバイエルンから獲得したことで、会長のフロレンティーノ・ペレスは誇らしげだった。しかし、クロースをメディアに紹介する前に、ペレス会長はこう述べた。
「今回の入団発表には、これまで14年間にわたってこういう場に立ち会っていた偉大な人物がいない。ディ・ステファノの不在を受け入れるのは簡単ではない」
ワールドカップ期間中の7月7日、R・マドリーの輝けるレジェンドであり、同クラブの名誉会長を務めていたアルフレッド・ディ・ステファノは、心臓発作のための88歳でその偉大な人生の幕を閉じた。
1926年にアルゼンチンのブエノスアイレスに生まれ、リーベル、ウラカンで実績を積んだ後、49年に当時、栄華を誇っていたコロンビアのミジョナリオスに移籍し、チーム、個人ともに多くのタイトルを獲得。そして53年にスペインに渡り、当時まだ真の強豪ではなかったR・マドリーに移籍した。
当初はバルセロナに移籍する予定だったのが、R・マドリーがこの南米の宝石を手に入れるためにスペイン中央政府が動き、リーグからの外国人締め出しなど、強引にルールを変えてまでバルセロナに揺さぶりをかけ、最後は両クラブの共同保有とし、最初の2年はR・マドリー、その後の2年はバルセロナでプレーするという特異な契約に持ち込んだのだった(後にバルセロナは諦めて保有権を譲渡)。
R・マドリーでは11シーズンの在籍でリーグ優勝8回を記録し、5度の得点王、バロンドールも2度(57、59年)受賞したが、特筆すべきは、55年に創設されたチャンピオンズ・カップ(現リーグ)で第1回からの5連覇にチームを導いたことだ。これにより、R・マドリーも世界に冠たるクラブとしての歴史を歩んでいくこととなった。
クラブでの栄光とは対照的に、代表チームでは負傷などもあって、アルゼンチン、コロンビア、スペインで代表選手となりながらも、一度もワールドカップの舞台に立つことはできなかった(アルゼンチン代表時代の47年にコパ・アメリカに優勝したのが唯一のタイトル)。そして栄光を得たR・マドリーとも一度は袂を分かち、選手生活の最後の2年間はエスパニョールで過ごして、66年に40歳で現役を退いた。
引退後は、スペイン、アルゼンチン、ポルトガルの計8クラブで監督を務め、R・マドリーでも82年から84年、90年から91年の2度、指揮を執った。そして2000年にR・マドリーの名誉会長に就任し、重要なイベントには必ず出席するようになった。
特に、R・マドリーが銀河系軍団化してからは、ルイス・フィーゴ、ジネディーヌ・ジダン、ロナウド、デイビッド・ベッカム、カカ、クリスチアーノ・ロナウドなどのビッグネームの入団セレモニーでは、ディ・ステファノがその威厳のある姿を見せるのが常であった。05年に心筋梗塞を患って生死の境をさまよい、後に車椅子に乗るようになってからも、である。
しかし、もうその姿を見ることはできない。その喪失感と寂寥感を深く味わったのは、ペレス会長だけではない。実際、世界中のサッカー関係者が哀悼の意を表し、多くのマドリディスタがレジェンドに最後の別れを告げるために、長い列を作った。
しかし、ペレス会長は最後に、こうも付け加えた。
「ディ・ステファノは永遠に我々の元にいる。今回のクロースの補強にも、興奮していることだろう」
そう、偉大なる魂は今度も、R・マドリーとともに生き続けるのである。
【追悼・写真で見る】アルフレド・ディ・ステファノの偉大なる人生
ワールドカップではMVP級の働きで世界制覇に貢献した、有能な攻撃選手をバイエルンから獲得したことで、会長のフロレンティーノ・ペレスは誇らしげだった。しかし、クロースをメディアに紹介する前に、ペレス会長はこう述べた。
「今回の入団発表には、これまで14年間にわたってこういう場に立ち会っていた偉大な人物がいない。ディ・ステファノの不在を受け入れるのは簡単ではない」
ワールドカップ期間中の7月7日、R・マドリーの輝けるレジェンドであり、同クラブの名誉会長を務めていたアルフレッド・ディ・ステファノは、心臓発作のための88歳でその偉大な人生の幕を閉じた。
1926年にアルゼンチンのブエノスアイレスに生まれ、リーベル、ウラカンで実績を積んだ後、49年に当時、栄華を誇っていたコロンビアのミジョナリオスに移籍し、チーム、個人ともに多くのタイトルを獲得。そして53年にスペインに渡り、当時まだ真の強豪ではなかったR・マドリーに移籍した。
当初はバルセロナに移籍する予定だったのが、R・マドリーがこの南米の宝石を手に入れるためにスペイン中央政府が動き、リーグからの外国人締め出しなど、強引にルールを変えてまでバルセロナに揺さぶりをかけ、最後は両クラブの共同保有とし、最初の2年はR・マドリー、その後の2年はバルセロナでプレーするという特異な契約に持ち込んだのだった(後にバルセロナは諦めて保有権を譲渡)。
R・マドリーでは11シーズンの在籍でリーグ優勝8回を記録し、5度の得点王、バロンドールも2度(57、59年)受賞したが、特筆すべきは、55年に創設されたチャンピオンズ・カップ(現リーグ)で第1回からの5連覇にチームを導いたことだ。これにより、R・マドリーも世界に冠たるクラブとしての歴史を歩んでいくこととなった。
クラブでの栄光とは対照的に、代表チームでは負傷などもあって、アルゼンチン、コロンビア、スペインで代表選手となりながらも、一度もワールドカップの舞台に立つことはできなかった(アルゼンチン代表時代の47年にコパ・アメリカに優勝したのが唯一のタイトル)。そして栄光を得たR・マドリーとも一度は袂を分かち、選手生活の最後の2年間はエスパニョールで過ごして、66年に40歳で現役を退いた。
引退後は、スペイン、アルゼンチン、ポルトガルの計8クラブで監督を務め、R・マドリーでも82年から84年、90年から91年の2度、指揮を執った。そして2000年にR・マドリーの名誉会長に就任し、重要なイベントには必ず出席するようになった。
特に、R・マドリーが銀河系軍団化してからは、ルイス・フィーゴ、ジネディーヌ・ジダン、ロナウド、デイビッド・ベッカム、カカ、クリスチアーノ・ロナウドなどのビッグネームの入団セレモニーでは、ディ・ステファノがその威厳のある姿を見せるのが常であった。05年に心筋梗塞を患って生死の境をさまよい、後に車椅子に乗るようになってからも、である。
しかし、もうその姿を見ることはできない。その喪失感と寂寥感を深く味わったのは、ペレス会長だけではない。実際、世界中のサッカー関係者が哀悼の意を表し、多くのマドリディスタがレジェンドに最後の別れを告げるために、長い列を作った。
しかし、ペレス会長は最後に、こうも付け加えた。
「ディ・ステファノは永遠に我々の元にいる。今回のクロースの補強にも、興奮していることだろう」
そう、偉大なる魂は今度も、R・マドリーとともに生き続けるのである。
【追悼・写真で見る】アルフレド・ディ・ステファノの偉大なる人生

逝去から2日後にブラジルW杯準決勝が行なわれ、試合前には両チームが黙祷。試合はPK戦の末にディ・ステファノの母国アルゼンチンがオランダを下し、エースのリオネル・メッシは偉大なる先達に勝利を捧げた。 (C) Getty Images