クラブが薦めたオランダ人ではなく、英国系FWコンビを獲得。

ワールドカップ得点王リネカー(右)とイングランドで得点を量産していたヒューズ(左)の前線コンビは、リーガ最大の注目の的だった。 (C) Getty Images

リーガではR・マドリーの連覇を許し、国内外のカップ戦も途中敗退を喫した。写真はUEFAカップ・ラウンド16のユルディンゲン戦。 (C) SOCCER DIGEST
華やかな欧州サッカーを彩る各国のビッグクラブ。世界中からスタープレーヤーを揃え、極上のプレーで人々を魅了している。
独自の魅力を持った豪華なスター集団は、それぞれ異なる歴史を築き上げてきた。シーズンによって異なる選手と監督を擁して、紆余曲折を経ながら、現在に至るその歩みの軌跡を、ここで振り返ってみよう。
まずは現欧州王者で、年末の来日が待ち遠しいバルセロナだ。1986-87シーズンのバルサとはどのようなクラブで、どんなスターが顔を揃えていたのか。懐かしい顔、意外な顔が見つかるかもしれない。
――◇――◇――
1986年の夏といえば、ディエゴ・マラドーナが別次元のプレーでアルゼンチン代表を世界王者に押し上げたメキシコ・ワールドカップが行なわれた。そしてこの大会で得点王の栄誉に輝いたのが、イングランドのガリー・リネカーだった。
一躍、時の人となったリネカー。そんな彼をエバートンから引き抜いたのが、バルサだった。
イングランド人のテリー・ベナブルスが率いるチームは前シーズン、チャンピオンズ・カップ(現リーグ)で決勝に進出。会場はセビージャで、相手は伏兵ステアウア・ブカレストということで圧倒的有利と予想されながら、スコアレスのままPK戦に突入し、4人全員が止められるという悪夢のような展開で欧州初制覇のチャンスを逃していた。
最後の最後で無冠に終わり、落胆を引きずっていたチームを立て直すため、ベナブルスが欲したのが、リネカーとウェールズ代表のマーク・ヒューズ(当時マンチェスター・ユナイテッド所属)という2人のFWだった。
ちなみに当時、クラブ側はベナブルスに対し、オランダのルート・フリット(PSV)とマルコ・ファン・バステン(アヤックス)の獲得を提案していたが、ベナブルスはあくまでも前述の英国系FWにこだわった。
この2人の外国人の到来によって登録メンバーから外された(当時の外国籍選手の登録枠は2)のが、西ドイツ(当時)の華麗な司令塔ベルント・シュスターとスコットランド人FWのスティーブ・アーチボルドである。
前者は前述のチャンピオンズ・カップ決勝で途中交代を命じられたことに腹を立て、勝手に帰宅したことがジョゼップ・ルイス・ヌニェス会長の逆鱗に触れ、長く干されるという屈辱を味わうこととなった。
助っ人でありながらベンチにすら入れない2選手は、クラブと監督に対する批判を、シーズンを通して展開。これにより、バルサは集中力を保つことができず、結局、2年連続で宿敵レアル・マドリーの後塵を拝することとなった。
ただ、リネカーに関しては、R・マドリーとのクラシコでハットトリックを達成。1958-59シーズンのエバリスト以来となる偉業でチームを3-2の勝利に導いたことで、入団1年目にして早くもファンの心をがっちり掴んだ。
リネカーのシーズン通算成績は44試合出場・20得点(得点ランキング2位)、一方のヒューズは28試合出場・4得点に止まった。
なおこのシーズンは、18チームによる通常のリーグ戦を行なった後、さらに上位から6チームずつに分け、そのなかで総当たり戦を行なって順位を決定するという新たな方式を導入。リーグを面白くするための施策だったが、むしろ試合数の増加などで凡戦が続き、客足が遠のく結果に……。翌シーズンには通常のレギュレーションに戻された。
独自の魅力を持った豪華なスター集団は、それぞれ異なる歴史を築き上げてきた。シーズンによって異なる選手と監督を擁して、紆余曲折を経ながら、現在に至るその歩みの軌跡を、ここで振り返ってみよう。
まずは現欧州王者で、年末の来日が待ち遠しいバルセロナだ。1986-87シーズンのバルサとはどのようなクラブで、どんなスターが顔を揃えていたのか。懐かしい顔、意外な顔が見つかるかもしれない。
――◇――◇――
1986年の夏といえば、ディエゴ・マラドーナが別次元のプレーでアルゼンチン代表を世界王者に押し上げたメキシコ・ワールドカップが行なわれた。そしてこの大会で得点王の栄誉に輝いたのが、イングランドのガリー・リネカーだった。
一躍、時の人となったリネカー。そんな彼をエバートンから引き抜いたのが、バルサだった。
イングランド人のテリー・ベナブルスが率いるチームは前シーズン、チャンピオンズ・カップ(現リーグ)で決勝に進出。会場はセビージャで、相手は伏兵ステアウア・ブカレストということで圧倒的有利と予想されながら、スコアレスのままPK戦に突入し、4人全員が止められるという悪夢のような展開で欧州初制覇のチャンスを逃していた。
最後の最後で無冠に終わり、落胆を引きずっていたチームを立て直すため、ベナブルスが欲したのが、リネカーとウェールズ代表のマーク・ヒューズ(当時マンチェスター・ユナイテッド所属)という2人のFWだった。
ちなみに当時、クラブ側はベナブルスに対し、オランダのルート・フリット(PSV)とマルコ・ファン・バステン(アヤックス)の獲得を提案していたが、ベナブルスはあくまでも前述の英国系FWにこだわった。
この2人の外国人の到来によって登録メンバーから外された(当時の外国籍選手の登録枠は2)のが、西ドイツ(当時)の華麗な司令塔ベルント・シュスターとスコットランド人FWのスティーブ・アーチボルドである。
前者は前述のチャンピオンズ・カップ決勝で途中交代を命じられたことに腹を立て、勝手に帰宅したことがジョゼップ・ルイス・ヌニェス会長の逆鱗に触れ、長く干されるという屈辱を味わうこととなった。
助っ人でありながらベンチにすら入れない2選手は、クラブと監督に対する批判を、シーズンを通して展開。これにより、バルサは集中力を保つことができず、結局、2年連続で宿敵レアル・マドリーの後塵を拝することとなった。
ただ、リネカーに関しては、R・マドリーとのクラシコでハットトリックを達成。1958-59シーズンのエバリスト以来となる偉業でチームを3-2の勝利に導いたことで、入団1年目にして早くもファンの心をがっちり掴んだ。
リネカーのシーズン通算成績は44試合出場・20得点(得点ランキング2位)、一方のヒューズは28試合出場・4得点に止まった。
なおこのシーズンは、18チームによる通常のリーグ戦を行なった後、さらに上位から6チームずつに分け、そのなかで総当たり戦を行なって順位を決定するという新たな方式を導入。リーグを面白くするための施策だったが、むしろ試合数の増加などで凡戦が続き、客足が遠のく結果に……。翌シーズンには通常のレギュレーションに戻された。

監督:テリー・ベナブルス(イングランド)
主なサブプレーヤー:GKウルティ、DFアレサンコ、マノーロ、MFウルバノ、ナイーム、シュスター、FWアーチボルド、マルコス・アロンソ、アマリージャ(横浜フリューゲルスでもプレー)
◎1986-87シーズン成績
リーガ:2位(24勝15分け5敗・63得点29失点)
国王杯:ラウンド16敗退(対オサスナ)
UEFAカップ:準々決勝敗退(対ダンディー・ユナイテッド)
チーム内得点ランキング(リーガ):リネカー(20点)、ロベルト(10点)、カラスコ(6点)、アーチボルド(5点)、カルデレ(4点)、ビクトル・ムニョス(4点)、ヒューズ(4点)、ペドラサ(2点)、エステバン・ビーゴ(1点)、ラウール・アマリージャ(1点)、ウルバノ(1点)、フリオ・アルベルト(1点)、マルコス・アロンソ(1点)、ジェラール(1点)
◎主なトランスファー
◇IN
夏
GKスビサレータ(←アスレティック・ビルバオ)
MFロベルト(←バレンシア)
FWリネカー(←エバートン)
FWヒューズ(←マンチェスター・ユナイテッド)
◇OUT
夏
GKアマドール(→ムルシア)
MFホセ・サンチェス(→ムルシア)
FWピチ・アロンソ(→エスパニョール)
FWマノーロ(→ムルシア)
リーガ:2位(24勝15分け5敗・63得点29失点)
国王杯:ラウンド16敗退(対オサスナ)
UEFAカップ:準々決勝敗退(対ダンディー・ユナイテッド)
チーム内得点ランキング(リーガ):リネカー(20点)、ロベルト(10点)、カラスコ(6点)、アーチボルド(5点)、カルデレ(4点)、ビクトル・ムニョス(4点)、ヒューズ(4点)、ペドラサ(2点)、エステバン・ビーゴ(1点)、ラウール・アマリージャ(1点)、ウルバノ(1点)、フリオ・アルベルト(1点)、マルコス・アロンソ(1点)、ジェラール(1点)
◎主なトランスファー
◇IN
夏
GKスビサレータ(←アスレティック・ビルバオ)
MFロベルト(←バレンシア)
FWリネカー(←エバートン)
FWヒューズ(←マンチェスター・ユナイテッド)
◇OUT
夏
GKアマドール(→ムルシア)
MFホセ・サンチェス(→ムルシア)
FWピチ・アロンソ(→エスパニョール)
FWマノーロ(→ムルシア)