メッシのために試合をセッティング
どんな世界にも“タラレバ”は付き物だ。「あのシュートが決まっていれば――」「あの時に別のクラブに移籍していたら――」。サッカー界も例外ではないだろう。
かつてリオネル・メッシが下した決断もその一つと言えるかもしれない。今から17年前の2004年、当時16歳だった天才アタッカーはスペイン代表入りを蹴って、アルゼンチン代表になる道を選んだ。
メッシの決断に小さくない影響を与えたのが、後にアルゼンチン代表監督となる智将ホセ・ペケルマンだった。
当時、スペインのレガネスでスポーツディレクターを務めていた名伯楽は、すでにバルセロナで話題を振りまいていた天才児を見るや、U-20代表監督だったウーゴ・トカーリに「ロサリオ生まれの小さな天才がいる」と代表へ招集するように説得。さらにアルゼンチン・サッカー協会の会長だったフリオ・グロンドーナにパラグアイとの親善試合をセッティングさせ、セレステ・イ・ブランコ(アルゼンチン代表の愛称)のシャツに袖を通させたのだ。
ペケルマンは天才少年をいかにして口説き落としたのか。現地時間2月20日にアルゼンチン・メディア『TNT Sports』の取材に応じた智将は、13歳から家族でバルセロナに移住していたメッシにスペイン代表入りの可能性があったことを明かした。
「我々は事実上、スペインからメッシを盗んだようなものだ。バルセロナのユースで活躍していた彼のことをスペイン代表も頻繁にスカウトしていて、メッシ自身もスペイン代表でプレーする考えが少しはあったみたいだった。
ただ、彼の両親は本人の決断を尊重しようとしていた。そこで彼にどうしたいかを聞いたんだ。そしたら『僕はアルゼンチン人だから、もしも呼ばれるならアルゼンチンのためにプレーしたい』と答えた。もちろん、全て彼自身の決断だ。強要はしていない。だが、私たちはすぐにバルセロナに掛け合って、FIFAの規則に従ってすぐに代表戦に呼べるように動いた」
【PHOTO】海外番記者・識者が選んだ「アルゼンチン代表のレジェンド完全格付けTOP10」を厳選ショットで振り返り!
かつてリオネル・メッシが下した決断もその一つと言えるかもしれない。今から17年前の2004年、当時16歳だった天才アタッカーはスペイン代表入りを蹴って、アルゼンチン代表になる道を選んだ。
メッシの決断に小さくない影響を与えたのが、後にアルゼンチン代表監督となる智将ホセ・ペケルマンだった。
当時、スペインのレガネスでスポーツディレクターを務めていた名伯楽は、すでにバルセロナで話題を振りまいていた天才児を見るや、U-20代表監督だったウーゴ・トカーリに「ロサリオ生まれの小さな天才がいる」と代表へ招集するように説得。さらにアルゼンチン・サッカー協会の会長だったフリオ・グロンドーナにパラグアイとの親善試合をセッティングさせ、セレステ・イ・ブランコ(アルゼンチン代表の愛称)のシャツに袖を通させたのだ。
ペケルマンは天才少年をいかにして口説き落としたのか。現地時間2月20日にアルゼンチン・メディア『TNT Sports』の取材に応じた智将は、13歳から家族でバルセロナに移住していたメッシにスペイン代表入りの可能性があったことを明かした。
「我々は事実上、スペインからメッシを盗んだようなものだ。バルセロナのユースで活躍していた彼のことをスペイン代表も頻繁にスカウトしていて、メッシ自身もスペイン代表でプレーする考えが少しはあったみたいだった。
ただ、彼の両親は本人の決断を尊重しようとしていた。そこで彼にどうしたいかを聞いたんだ。そしたら『僕はアルゼンチン人だから、もしも呼ばれるならアルゼンチンのためにプレーしたい』と答えた。もちろん、全て彼自身の決断だ。強要はしていない。だが、私たちはすぐにバルセロナに掛け合って、FIFAの規則に従ってすぐに代表戦に呼べるように動いた」
【PHOTO】海外番記者・識者が選んだ「アルゼンチン代表のレジェンド完全格付けTOP10」を厳選ショットで振り返り!
そうして“超逸材”のために開催された同年6月29日にパラグアイU-20代表との一戦で、アルゼンチンは8-0と圧勝。英雄の名を冠した「エスタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」を舞台に、メッシは1ゴール・2アシストと躍動したのである。
祖国への想いから選択したアルゼンチン代表では大きな栄冠を掴めていないメッシ。もしも、ペケルマンの誘いを蹴り、スペイン代表を選んでいたら、ナショナルチームでのキャリアはどうなっていただろうか――。
構成●サッカーダイジェストWeb編集部
祖国への想いから選択したアルゼンチン代表では大きな栄冠を掴めていないメッシ。もしも、ペケルマンの誘いを蹴り、スペイン代表を選んでいたら、ナショナルチームでのキャリアはどうなっていただろうか――。
構成●サッカーダイジェストWeb編集部