カルチョの歴史に残るエレガントなリベロ
ガンバ大阪のジュニアユースU-14チームは8月26日より、イタリア・ミラノで開催されている国際大会に参加している。
2003年以降に生まれた選手が出場資格を持つこの大会には、イタリア国内外の24チームが参加しており、G大阪はグループステージでローマ(2-0)、ロンバルディア州選抜(2-2)を抑えて準々決勝へ進出。ここでもパルマを2-1で下した。
残念ながら準決勝ではアタランタに1-5で敗れて決勝進出はならなかったものの、9月3日には3位決定戦でユベントスと対戦する(決勝はアタランタ対インテル)。
さて、この世界最高峰ともいわれる由緒あるジュニアユースの大会、名称を「Memorial Gaetano Scirea」という。日本語にすれば「ガエターノ・シレア記念国際大会」である。
オールドファンなら、この名前に懐かしさを覚えることだろう。ガエターノ・シレア――イタリア・サッカーの歴史に残るリベロであり、ユベントス、イタリア代表のいずれにおいても世界一に貢献した偉大な選手である。
その選手の名前を冠した大会の最終日(決勝)が9月3日に設定されたのは、この日がシレアの命日だからだ。28年前のこの日、まだ36歳だった彼は異国の地でその命を散らした。
1953年5月25日生まれのシレアは、72年にアタランタでデビューし、2年後に名門ユベントスに加入。ここで7度のリーグ制覇の他、コッパ・イタリア2回、そしてチャンピオンズ・カップ、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)、カップウィナーズ・カップと、当時の「欧州3大カップ」を全て制した。
85年にはインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)に出場。東京・国立競技場でのアルヘンティノスとの一戦、キャプテンのシレアは負傷で無念の途中退場となったが、チームはPK戦までもつれ込んだ激戦を制し、初の世界王者となった。
そしてイタリア代表としては、82年スペイン・ワールドカップで奇跡の優勝を果たした栄光のイレブンのひとりとして、シレアはイタリアの英雄に昇り詰めた。
インテリジェンス溢れるエレガントなDFであり、テクニックと研ぎ澄まされた感覚で世界中の攻撃プレーヤーを苦しめ、そして相手チームの攻撃を封じた。機を見た攻撃参加で、時に自ら重要なゴールを奪ったりもした。
ユーベでは歴代2位となる552試合出場(全公式戦)、アズーリでは78試合出場という記録を残して、88年に栄光に満ちたキャリアを全う。翌年、選手としてともに栄光を勝ち取った同志ディノ・ゾフがユーベの監督に就任した際、アシスタントに抜擢された。
対戦相手のスカウティングなども担当したシレアは、89年9月3日、UEFAカップで対戦するポーランドのクラブを視察。その帰途、彼の乗った車がハイウェイでトラックと衝突し、爆発炎上。わずか36歳で、その人生を終えることとなった。
国中に衝撃を与えたこの悲劇の後、イタリア・サッカー界はシレアの功績を称え、若い世代の大会(競技に関わらず)や賞に彼の名を冠した。自国開催の90年イタリアW杯でも、世界中のメディアの拠点は「ガエターノ・シレア・メディアセンター」と命名された。
ユーベもまた、ホームスタジアムのサポーター席に「クルバ・シレア」と名付け、殿堂入りも果たしたレジェンドを、その記憶に留め続けている。
もし、あの不幸な事故がなければ、64歳の彼は今頃、監督として辣腕を振るっていたか、ユーベのフロントの一員か、あるいはイタリア・サッカー連盟の役員を務めていたか……。人間的にも愛された偉大なリベロは今、天から若い選手たちを見守っている。
※2016年5月25日の記事より一部引用
2003年以降に生まれた選手が出場資格を持つこの大会には、イタリア国内外の24チームが参加しており、G大阪はグループステージでローマ(2-0)、ロンバルディア州選抜(2-2)を抑えて準々決勝へ進出。ここでもパルマを2-1で下した。
残念ながら準決勝ではアタランタに1-5で敗れて決勝進出はならなかったものの、9月3日には3位決定戦でユベントスと対戦する(決勝はアタランタ対インテル)。
さて、この世界最高峰ともいわれる由緒あるジュニアユースの大会、名称を「Memorial Gaetano Scirea」という。日本語にすれば「ガエターノ・シレア記念国際大会」である。
オールドファンなら、この名前に懐かしさを覚えることだろう。ガエターノ・シレア――イタリア・サッカーの歴史に残るリベロであり、ユベントス、イタリア代表のいずれにおいても世界一に貢献した偉大な選手である。
その選手の名前を冠した大会の最終日(決勝)が9月3日に設定されたのは、この日がシレアの命日だからだ。28年前のこの日、まだ36歳だった彼は異国の地でその命を散らした。
1953年5月25日生まれのシレアは、72年にアタランタでデビューし、2年後に名門ユベントスに加入。ここで7度のリーグ制覇の他、コッパ・イタリア2回、そしてチャンピオンズ・カップ、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)、カップウィナーズ・カップと、当時の「欧州3大カップ」を全て制した。
85年にはインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)に出場。東京・国立競技場でのアルヘンティノスとの一戦、キャプテンのシレアは負傷で無念の途中退場となったが、チームはPK戦までもつれ込んだ激戦を制し、初の世界王者となった。
そしてイタリア代表としては、82年スペイン・ワールドカップで奇跡の優勝を果たした栄光のイレブンのひとりとして、シレアはイタリアの英雄に昇り詰めた。
インテリジェンス溢れるエレガントなDFであり、テクニックと研ぎ澄まされた感覚で世界中の攻撃プレーヤーを苦しめ、そして相手チームの攻撃を封じた。機を見た攻撃参加で、時に自ら重要なゴールを奪ったりもした。
ユーベでは歴代2位となる552試合出場(全公式戦)、アズーリでは78試合出場という記録を残して、88年に栄光に満ちたキャリアを全う。翌年、選手としてともに栄光を勝ち取った同志ディノ・ゾフがユーベの監督に就任した際、アシスタントに抜擢された。
対戦相手のスカウティングなども担当したシレアは、89年9月3日、UEFAカップで対戦するポーランドのクラブを視察。その帰途、彼の乗った車がハイウェイでトラックと衝突し、爆発炎上。わずか36歳で、その人生を終えることとなった。
国中に衝撃を与えたこの悲劇の後、イタリア・サッカー界はシレアの功績を称え、若い世代の大会(競技に関わらず)や賞に彼の名を冠した。自国開催の90年イタリアW杯でも、世界中のメディアの拠点は「ガエターノ・シレア・メディアセンター」と命名された。
ユーベもまた、ホームスタジアムのサポーター席に「クルバ・シレア」と名付け、殿堂入りも果たしたレジェンドを、その記憶に留め続けている。
もし、あの不幸な事故がなければ、64歳の彼は今頃、監督として辣腕を振るっていたか、ユーベのフロントの一員か、あるいはイタリア・サッカー連盟の役員を務めていたか……。人間的にも愛された偉大なリベロは今、天から若い選手たちを見守っている。
※2016年5月25日の記事より一部引用