頭に浮かぶのは“少年”だった姿
2021年シーズン限りでの現役引退を発表した阿部勇樹。千葉のアカデミーで育ち、浦和や日本代表でも活躍した、その輝かしいキャリアを様々な記者に振り返ってもらう。ここでは千葉時代のエピソードを紹介してもらう。
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千葉と浦和で選手として、そしてキャプテンとして素晴らしい姿を見せた阿部だが、筆者にとっては一時期、少し“厄介な”取材対象者でもあった。
当時のJ1最年少記録でのJデビュー、1999年にはチームで唯一公式戦全試合出場と、阿部はユース年代からサッカーセンスやテクニックに優れ、トップチームの先輩たちと比べても見劣りしないプレーを披露していた。ただ歳の離れた兄と姉がいる阿部は末っ子気質で泣き虫な面もあり、メンタル面はまだ『大人』ではない部分もあった。
2000年のJ1、第1ステージ・15節で市原(当時)は横浜に0-2で敗戦。横浜は他会場でC大阪が川崎に敗れたことを受け、第1ステージ優勝をつかみ取った。その試合後、敗戦がよほど悔しかったのか、怒りをぶつけるように受け答えをしていた阿部の姿を覚えている。
今だから話せるが、当時はインタビュー取材が苦手で、時間を早く切り上げようとしたり、記者に捕まらぬように帰ろうとしたりしたこともあった。
だからこそ、2001年の宮崎キャンプの取材の際、筆者の近くにいた岡社長(当時)がポツリと「そうだな。将来のキャプテンは阿部だな」と言った時、筆者には阿部がキャプテンを務める姿は想像できなかった。
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千葉と浦和で選手として、そしてキャプテンとして素晴らしい姿を見せた阿部だが、筆者にとっては一時期、少し“厄介な”取材対象者でもあった。
当時のJ1最年少記録でのJデビュー、1999年にはチームで唯一公式戦全試合出場と、阿部はユース年代からサッカーセンスやテクニックに優れ、トップチームの先輩たちと比べても見劣りしないプレーを披露していた。ただ歳の離れた兄と姉がいる阿部は末っ子気質で泣き虫な面もあり、メンタル面はまだ『大人』ではない部分もあった。
2000年のJ1、第1ステージ・15節で市原(当時)は横浜に0-2で敗戦。横浜は他会場でC大阪が川崎に敗れたことを受け、第1ステージ優勝をつかみ取った。その試合後、敗戦がよほど悔しかったのか、怒りをぶつけるように受け答えをしていた阿部の姿を覚えている。
今だから話せるが、当時はインタビュー取材が苦手で、時間を早く切り上げようとしたり、記者に捕まらぬように帰ろうとしたりしたこともあった。
だからこそ、2001年の宮崎キャンプの取材の際、筆者の近くにいた岡社長(当時)がポツリと「そうだな。将来のキャプテンは阿部だな」と言った時、筆者には阿部がキャプテンを務める姿は想像できなかった。
だが、2003年に就任したオシム監督が、当時のJリーグでは史上最年少のキャプテンに阿部を任命。責任のある肩書を与え阿部の精神的成長を促す狙いもあったのだろう。阿部はテクニックやフィジカルとともに、メンタルも向上させていった。努力を重ねてテクニックを磨いた阿部は、キャプテン就任によって必要となるメンタルの強化でも努力を重ねたに違いない。
ある依頼で、阿部自身は負傷中でトレーニングキャンプに参加できなかったU-23日本代表について、クラブハウスで帰りがけの阿部に声をかけて取材したことがある。きっと断られると思ったが、きちんと話をしてくれたのが本当に嬉しかった。
千葉が2005年にヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で優勝し、Jリーグ開幕以降の初のタイトル獲得を果たした頃には、阿部は精神的支柱としてもチームを引っ張る頼もしいキャプテンへと成長していた。選手がさまざまな面で素晴らしく伸びていく過程を取材できるのは、記者として本当に楽しく、嬉しく、何物にも代えられないものだ。
2001年の宮崎キャンプで取材した際、阿部は「阿部ってアルファベットで書くと『ABE』で簡単だから、海外でも名前を覚えてもらいやすいと思うんです」と話していた。阿部が千葉を去るのは海外のクラブに旅立つ時だと勝手に考えていたから、浦和への移籍が発表された時には千葉サポーターと同じように寂しい気持ちになったのも事実だ。それでも阿部の活躍を願う思いも同時に抱えていた。
現役引退を知った時に頭の中に浮かんだのは、なぜか舞浜グラウンドにある体育館内の自動販売機で買ったパンを食べている阿部の姿だった。「おいしいですか?」という筆者の問いに、照れ臭そうな笑顔で答えた『少年』の阿部だった。あれから本当に長い時間が経った。阿部選手、長い間お疲れさまでした。今度もまた努力を重ねて、素晴らしい指導者になられるのを心から楽しみにしています。
取材・文●赤沼圭子(フリーライター)
ある依頼で、阿部自身は負傷中でトレーニングキャンプに参加できなかったU-23日本代表について、クラブハウスで帰りがけの阿部に声をかけて取材したことがある。きっと断られると思ったが、きちんと話をしてくれたのが本当に嬉しかった。
千葉が2005年にヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で優勝し、Jリーグ開幕以降の初のタイトル獲得を果たした頃には、阿部は精神的支柱としてもチームを引っ張る頼もしいキャプテンへと成長していた。選手がさまざまな面で素晴らしく伸びていく過程を取材できるのは、記者として本当に楽しく、嬉しく、何物にも代えられないものだ。
2001年の宮崎キャンプで取材した際、阿部は「阿部ってアルファベットで書くと『ABE』で簡単だから、海外でも名前を覚えてもらいやすいと思うんです」と話していた。阿部が千葉を去るのは海外のクラブに旅立つ時だと勝手に考えていたから、浦和への移籍が発表された時には千葉サポーターと同じように寂しい気持ちになったのも事実だ。それでも阿部の活躍を願う思いも同時に抱えていた。
現役引退を知った時に頭の中に浮かんだのは、なぜか舞浜グラウンドにある体育館内の自動販売機で買ったパンを食べている阿部の姿だった。「おいしいですか?」という筆者の問いに、照れ臭そうな笑顔で答えた『少年』の阿部だった。あれから本当に長い時間が経った。阿部選手、長い間お疲れさまでした。今度もまた努力を重ねて、素晴らしい指導者になられるのを心から楽しみにしています。
取材・文●赤沼圭子(フリーライター)