Jリーグ誕生を促した雨中の中国戦――晩年に遺された指揮官の舞台裏証言録【名勝負の後日談】

2020年06月01日 加部 究

短期連載コラム『名勝負の後日談』vol.9 1987年ソウル五輪予選・中国戦|メキシコ大会以来の出場へ千載一遇のチャンス

ソウル五輪予選に臨んだ日本代表メンバーの顔ぶれ。加藤久キャプテン(前列左から3番目)を中心に、水沼貴史(同4番目)、原博実(同右端)、奥寺康彦(後列中央)、堀池巧(前列左端)らが顔を揃えた。写真:サッカーダイジェスト

 歴史に残る名勝負、名シーンには興味深い後日談がある。舞台裏を知る関係者たちが明かしたあの日のエピソード、その後の顛末に迫る。(文●加部 究/スポーツライター)

――◆――◆――

 20年ぶりに世界への扉を開く絶好機が巡って来ていた。

 1968年メキシコ大会を最後に、日本は五輪から遠ざかっていた。しかし1988年の開催地はソウル。大きな壁として立ちはだかってきた韓国は、開催国枠で本大会へ直行する。日本が超えなければならないハードルは中国に変わり、千載一遇のチャンスを迎えていた。

 1987年7月、ソウル五輪最終予選の日程を決めるAFC(アジアサッカー連盟)会議が開かれた。日中両国ともに思惑は重なり、どちらも「先にアウェー、最終戦をホームで」と主張する。だがJFA(日本サッカー協会)の村田忠男専務理事(当時)の粘り強い交渉が功を奏し、同年10月4日に広州で、翌週の11日に東京で最終戦と、日本陣営にとっては理想的なスケジュールで決着した。

 日本代表を率いる石井義信監督は、村田と手を取り合って喜んだという。

「あとは結果を出すだけだな」

 ところが翌日村田がJFAに連絡を入れると、11日の最終戦開催はあっさりと却下されてしまう。当日東京・国立競技場では「コダック・オールスター戦」が予定されていた。

 村田は必死に食い下がった。
「なんとか他の都市で出来ないのか」

 しかし電話口の返答はけんもほろろだった。
「日本代表の強化費はどこから出ていると思っているんだ。お客さんの入らない会場で代表戦を開催すれば大赤字になる」

 日本代表の重要な一戦より興行が優先される。今では考えられないことだが、当時のJFAにとって外国籍も含めた日本リーグのタレントが東西に分かれて戦う「コダック・オールスター戦」は貴重な収入源だった。結局最終戦の日程は約2週間先送りになり、皮肉にも2年前にメキシコ・ワールドカップ予選で韓国に屈した10月26日に決まる。後付けながら、それが悲劇の前兆だったのかもしれない。
 

次ページフジタ工業では圧倒的な攻撃力を武器にリーグ、天皇杯を制覇。しかし日本代表では――

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事