【名勝負の後日談】ヴェルディの天敵となった“堅守”マリノス。82セレソンの異分子がもたらした“1-0”の美学

2020年04月27日 加部 究

短期集中連載【名勝負の後日談】vol.4 日産vs読売の名門対決!オスカー加入が分岐点に…

82年のスペインW杯では最終ラインを統率したオスカー。日産では三冠も達成している。写真:サッカーダイジェスト

 昨年横浜F・マリノスは、ふたりの得点王(仲川輝人とマルコス・ジュニオール)を誕生させるなど圧倒的な攻撃力を武器に4度目のリーグ制覇を遂げた。アンジェ・ポステコグルー監督は、クラブ史の流れを変える大胆な試みに成功したことになる。

 横浜の前身となる日産自動車の歴史が本格的に動き出したのは、1974年に後の日本代表監督・加茂周を招聘してからだった。当時は神奈川県リーグに所属していたが、1980年代に入りトップリーグ(JSL1部)に昇格すると「日本一の経験者を中心に」大卒の即戦力を次々に補強。83、85年には天皇杯を制した。加茂の狙いは的中した。高校や大学で日本一を経験している選手たちは、カップ・ファイナルでもまったく動じなかった。

 こうして加茂時代は木村和司、金田喜稔、水沼貴史、柱谷幸一、マリーニョら前線のタレントが豊富で破壊力を売りにしていたが、87年に元ブラジル代表主将のオスカーを迎えてからチームカラーが変わっていく。オスカーは前回の本連載でも紹介したように、MFに黄金のカルテット(ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ)を揃える攻撃力抜群のブラジルで、最後尾から守備を支えたディフェンダーだった。

 オスカーの加入で日産は、堅守速攻型へモデルチェンジした。現役最後のシーズン(88~89年)、さらには監督就任1年目(89~90年)と2年連続して三冠を獲得し、その流れを後任の清水秀彦が引き継ぎプロの時代に突入していくのだった。

 アマチュア末期からプロ草創期にかけて日本サッカー界のクラシコと言えば、日産(横浜)と読売クラブ(現東京ヴェルディ)の対決だった。両チームともにライバル意識をむき出しに戦う一戦は当時別格の質の高さを誇ったが、形勢が日産に傾きだしたのはオスカーが加入してからだった。

 後発の日産は、それまで読売クラブにはまったく勝てず、理由は明白だったという。錚々たる攻撃のタレントを集めてみたものの守備組織が構築されていなかった。そこで浦和市立時代にエースストライカーとして全国高校選手権を制した清水秀彦が、ボランチに転向するのだが、後ろでプレーしてみて改めて負担は大きかった。

「和司(木村)もキンタ(金田)も水沼も、長い距離を走って汗をかくタイプではない。とにかく試合中は"帰れ!"と叫んでばかりだった」
 

次ページ「1-0」の美学を持っていたオスカー。対して松木監督が目指したのは…

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