英国誌記者が“20冠”に想う。「アザディでの90分間にアントラーズの哲学が凝縮されていた」

2018年11月13日 マイケル・プラストウ

彼らはジーコを信じた。信じ続けた

ACLの優勝トロフィーを掲げて満面の笑みを浮かべるジーコTD。もはやレジェンドという言葉では語り尽くせない、偉大なる先達だ。(C)Getty Images

 鹿島アントラーズが初めてアジア王者に輝いた。あの10万大観衆のアウェーの地で掴んだ20個目の栄冠。まずはその偉業達成を大いに称えたい。

 なぜ茨城で生まれた小さなクラブが、ここまでの成功を収めることができたのか。ありきたりかもしれないが、やはりジーコの存在が大きかったと思う。

 すべてのサクセスストーリーはジーコから始まり、クラブは"神様"のビジョンを脈々と受け継ぎ、かつそのコネクションを活かして発展を遂げてきた。今シーズン途中にテクニカルディレクターとして舞い戻ったが、ジーコが夏に連れてきたセルジーニョが圧巻の出来を披露し、ACL制覇の立役者となった。アントラーズはジーコを信じた。信じ続けた。これが大きなカギだ。この一貫性こそが、20冠という大きな収穫に繋がったのである。

 
 もう四半世紀も前の話だ。Jリーグが産声を上げたころ、各クラブはこぞって世界的な名手を獲得した。ラモン・ディアスにピエール・リトバルスキー、ガリー・リネカーなどそれは華々しい限りだったし、1994年のアメリカ・ワールドカップの直後にはドゥンガやサルバトーレ・スキラッチも日本の地を踏んでいる。

 同じ時期にアントラーズで異彩を放ったレオナルドとジョルジーニョも忘れてはいけないだろう。ジーコの呼びかけを意気に感じた彼らは、すぐさまチームにフィットし、名実ともにワールドクラスであることを証明し続けた。日本のひとつのフットボールクラブにジーコほど貢献した外国人は、ほかに誰もいない。

 アントラーズはジーコを迎えてラッキーだったのか。それとも計算づくだったのか。おそらくはその両方だろう。

 当時日本サッカーリーグ(JSL)の2部所属だった前身、住友金属は、2位以内に入らなければJリーグに参戦できず、早急な補強が不可欠だった。大物助っ人に狙いを定めたのは他クラブと同じアプローチながら、幸運にも40歳を迎えていたジーコがタイミング良く新たな挑戦を望み、住友金属のビジョンとしっかり合致したのが大きい。ジーコはまさに日本サッカーの発展のためにすべてを捧げる覚悟だったのだ。

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