フットサルの選手→監督からの叩き上げ。清水の新指揮官ゼ・リカルドの異色のキャリア【現地発】

2022年06月18日 リカルド・セティオン

リオのほぼすべてのチームのテストを受け不合格

ヴァスコ・ダ・ガマの監督を辞任し、清水を率いることになったゼ・リカルド。(C)Getty Images

 清水エスパルスの監督となったゼ・リカルドは、ここ数年で頭角を現してきた人物だが、他の指揮官とは異色の経歴を持つ。

 彼はサッカーではなくフットサルのプロ選手であり監督だった。イタリアからの移民二世で、イタリアのパスポートも持っている。ちなみに彼の本名はジョゼ・リカルド・マナリーノ。ブラジルでジョゼは短く「ゼ」と呼ぶことが多い。だからゼ・リカルドだ。

 マラカナン・スタジアムのおひざ元で育ち、父が経営していた、彼が兄弟と手伝っていた新聞スタンドもこの地区にある。つまりずっとサッカーの空気を吸って育った人間だ。のちに入ったフットサルのチームもこの地区にあった。

 最初に入ったサッカーチームはサオ・クリストバオで、かの怪物ロナウドも所属していたチームだ。ゼ・リカルドも何度か彼を見かけたことがあったかもしれない。
 
 ゼ・リカルドは12、13歳までサッカーを続けた。しかしリオのほぼすべてのサッカーチームのテストを受けても、どこも獲得してはくれない(唯一フラメンゴのテストだけは受けなかった。当時フラメンゴの若い世代には多くの優秀な選手がいたので、彼は元から無理だとあきらめたのだそうだ)。

 オラリオというリオの小さなサッカーチームに半年だけ在籍したが、その後はフットサルに転向。25歳までプレーし、その間にリオのトーナメントで優勝もした。

 21歳からはフットサルの伝統あるチーム、ヴィジャ・イザベルでプレーしながらも、若い世代のコーチをしていた。リオのフットサルのベスト選手、ベストコーチにもなったこともある。

 引退後はそのままフットサルのコーチとなり、バスコ・ダ・ガマやボタフォゴのフットサルチームを率いた。

 その後イタリアに渡り、アスコリのフットサルチームのユースとトップを率い、監督だけでなく、フィジカルトレーナー、GKコーチまで務めた。彼がアスコリにいた時代はイタリア・サッカーの黄金期で、なかでもアリーゴ・サッキのサッカーに心酔したという。

 彼はそのままイタリアにいてもいいと思っていたが、2005年にフラメンゴのジュニアチームの監督の話が舞い込み、ブラジルに戻る。2006年にはU-15のチームを率いてリオ選手権で優勝する。この時最終的に優勝を争ったバスコにはフィリッペ・コウチーニョ(現アストン・ビラ)がいた。しかし2008年には解任され、2009年にアウダックスを率いる。

次ページバスコの監督を電撃辞任し、清水を選んだ背景とは?

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事