【消えた逸材】18歳でバルセロナへ…この移籍が“クロアチアの神童”のキャリアを暗転させた

2021年06月30日 ワールドサッカーダイジェスト編集部

気がつけば流転のフットボーラーに

バルセロナでは結局トップチームに正式昇格できなかったハリロビッチ。(C)Getty Images

アレン・ハリロビッチ(MF/クロアチア代表)
■生年月日/1996年6月18日
■身長・体重/169cm・69kg


 ズボニミール・ボバン、ダボル・シュケル、ルカ・モドリッチというクロアチアの歴代レジェンドに肩を並べる超逸材と謳われ、「次代のリオネル・メッシ」とも称された。テクニック、クイックネス、ビジョンを兼ね備えたレフティーの「10番」、アレン・ハリロビッチはまさに才能の塊、神童だった。

 ディナモ・ザグレブに躊躇はなかった。むしろ確信をもってトップチームに引き上げ、クラブ史上最年少記録となる16歳101日でデビューさせた。

 それからたったの2年後だ。2014年夏、18歳でバルセロナへ。希望に満ちたこの移籍は、しかし、キャリアを暗転させる運命の分かれ目だった。
 
 バルサでは芽が出ず、気がつけば毎年のように移籍を繰り返す流転のフットボーラーになっていた。バルサを含めこの7年間で在籍したのは7チーム。その間、レンタル加入でスポルティング・ヒホンを降格の危機から救った2015-16シーズンの活躍が唯一実績らしい実績で、2020-21シーズンはイングランド2部のバーミンガムでプレーした。

 何が16歳の神童のキャリアを狂わせたのか。

 周囲の大人に振り回されたのがひとつ。足を引っ張ったのは、他でもない父親だった。自身もディナモの下部組織で育った元MFで、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの代表選手だった父セヤド・ハリロビッチは、息子アレンの代理人として豪腕を振るった。デビュー当初から国外移籍を画策し、ディナモのズドラフコ・マミッチ会長と対立した。

 バルサ加入後も父セヤドの独断専行は続き、Bチームの若手に過ぎない息子にパーソナルコーチを付け、レンタル先についても口を出し、クラブと衝突を繰り返した。結局、ヒホン行きを拒否する形で2016年夏、ハンブルクへ完全移籍。バルサとはたった2年での決別だった。

 ここから坂を転がるように落ちていく。ハンブルクではすぐに監督交代があり、新指揮官のマルクス・ギスドルには練習態度を問題視された。ラス・パルマスへのレンタルを経て移籍したミランでも、ジェンナーロ・ガットゥーゾ監督の信頼を得られず、1年目はスタンダール・リエージュ、2年目はヘーレンフェーンに送られた。そこでもパッとせず、ついにイングランド2部(バーミンガム)へと都落ちした。

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