現役時代の挫折を糧にモデルとして活躍。元Jリーガー三渡洲舞人の充実のセカンドキャリア

2021年04月15日 広島由寛(サッカーダイジェストWeb編集部)

チームメイトはカゼミーロやルーカス、オスカル

元Jリーガーの舞人氏。セカンドキャリアはモデルとして活躍する。写真:徳原隆元

 物心ついた時には、すでにサッカーボールを蹴っていた。

 父親は三渡洲アデミール。ブラジルから編入した東海大一高時代には選手権制覇を果たし、その名を全国にとどろかせた。卒業後はヤマハ(現ジュビロ磐田)や清水エスパルスでプレーした元Jリーガーである。

 プロのフットボーラーの息子として生を受けた三渡洲舞人は、当然のようにサッカーを始める。生まれは静岡県浜松市で、小学校5年の時に単身ブラジルに渡り、名門サンパウロの下部組織に所属。当時のチームメイトにはカゼミーロ(現レアル・マドリー)やルーカス・モウラ(現トッテナム)、オスカル(現・上海ポート)らがいた。

 のちにセレソンに選ばれる逸材たちと切磋琢磨する日々で、自分も将来はプロを目指していたし、「"なれる"という確信もあった」。日本に帰国したのは中学1年の時。清水のジュニアユースに入り、高校は流通経済大柏高に進学。順調にステップを踏み、実際にJクラブや世代別代表からも興味を示されていた。

 だが、怪我の問題があった。右膝の痛みを抱えながらのプレーは、正直辛かった。また高校時代は「自分の中で腑に落ちるポジションが定まらなかった」ことも、良い影響を及ぼさなかった。ずっとFWでやってきたが、攻撃的なアクションはどうしても膝に負担がかかる。それでDFに転向したが、どこかモヤモヤしたものがあったのも事実だ。

 サッカーと真摯に向き合えていない自分がいた。気づけば高校を卒業するタイミングだ。プロになる――「その自信はなくなっていましたね」と舞人は振り返る。「仮にプロになれたとしても、このメンタリティでは続かない」と見切りをつけた。

 一度、サッカーと距離を置こうと思った。そんな自分に何ができるか。選択肢のひとつに浮かんだのが、モデルという仕事だった。

 高校を卒業し、『アバクロンビー&フィッチ』の店舗で働いていた。その流れでモデルの世界に足を踏み入れ、「楽しい世界だな」とますます興味をひかれた。

 それでも、プロへの想いが完全に断ち切れていたわけではなかった。「チャンスがあるなら」と頭の片隅にはあったし、トレーニングは続けていた。

 そして20歳になる前に、決心がつく。悩まされた怪我もだいぶ良くなっている。「もう一回、サッカーに挑戦したい」と父親に告げる。「中途半端な気持ちではダメだ」と強く諭され、東京での生活を引き払い、なけなしの貯金を持って静岡に帰った。

「富士川の河川敷にコーンを置いて、1対1とか父と練習していましたね」

 ほどなくしてJクラブの練習参加にこぎつけ、話がまとまりそうになったクラブもあったが、運悪く怪我をしてしまい破談。それでもあきらめず可能性を探っているうちに、東京ヴェルディと契約することができた。2013年の夏だった。
 

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