【“天才”回顧録】「20人いたら20番目くらいの存在だった」財前宣之。いかに技術を磨いたのか――

2020年08月11日 古沢侑大(サッカーダイジェスト編集部)

家から練習場まで往復約6時間

財前氏は仙台で約7年間プレー。154試合に出場し、17得点を挙げた。(C)SOCCER DIGEST

 サッカーダイジェスト本誌で好評を博した特集、『真のジーニアスは誰だ? 2020年度版 天才番付』。そのなかの関連企画として、かつて天才と呼ばれた男たちにスポットを当て、キャリアを振り返ってもらった。

 今回紹介するのは、10代からその才能を高く評価された財前宣之の"蹴球ストーリー"だ。

 1993年に開催されたU-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)で日本はベスト8に進出。当時のメンバーにはのちにA代表で活躍する松田直樹、宮本恒靖、中田英寿、戸田和幸らがいた。なかでも特段の輝きを放ったのが財前氏だ。背番号10を背負ったMFはチームの中心としてプレー、大会ベストイレブンに選ばれる堂々の活躍を披露した。

 現在、仙台でフットボールスクールを主宰している氏に話をうかがった。いかにしてその才能を開花させ、天才と謳われた日々になにを感じていたのか──。

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 周りからは天才だと言われていましたけど、自分ではそう思いません。中学1年で読売クラブの育成組織に入団して、僕は当初、20人いたら20番目くらいの存在でした。鳥かごではパスが来ないし、ボールも取れなかったですから。

 ただ、そういう状態からのスタートなので、逞しくはなりました。なおかつ、家から練習場まで往復約6時間で、それを6年間続けました。他の人に比べてサッカーに対する情熱やプロになりたいという想いは強かったのかなと思います。

 とはいえ、ボールタッチ、キックなど技術的な部分は多少、素質があったと思います。ボールの回転、強弱、逆回転で弾道を抑えるとか、そこまで考えていましたし、状況によって使い分けていました。誰からか教えられることなく感覚でプレーしていましたね。

 父親は野球をやっていたので"サッカー遺伝"だけで限定すると恵まれていなかったかもしれません。野球はかなり上手かったらしいですけどね。
 

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