【U-20激闘譜】合言葉は「史上初めてアジアを突破する年代になるんだ!」95年世代の生き証人・安永聡太郎が語る達成感と挫折

2020年06月20日 元川悦子

短期連載コラム『U-20 激闘譜』vol.1 95年カタール大会|中田英、松田、奥らが躍動

中田英寿(前列左端)、奥大介(同左から2番目)、松田直樹(後列左から3番目)、安永聡太郎(同右端)を擁した95年のU-20日本代表は、ワールドユースで8強入りを果たした。写真:サッカーダイジェスト

 90年代以降、日本のユース世代は幾度となくアジアの壁を突破し、世界への挑戦権を手にしてきたが、そこにはこの年代ならではの課題や示唆に富むドラマが隠されている。長きにわたり、日本のU-20年代の取材を続けてきた識者が、ポイントとなった世代をピックアップし、キーマンに直撃。当時のチームについて検証していく。95年カタール・ワールドユースのチームを取り上げる今回は、解説者の安永聡太郎氏に話を訊いた。(取材・文●元川悦子/フリーライター)

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 中田英寿、中村俊輔(横浜FC)、本田圭佑(ボタフォゴ)、香川真司(サラゴサ)と代々の日本代表エースが通ってきたU-20ワールドカップ(※2005年オランダ大会まではワールドユース、07年よりU-20ワールドカップに名称変更)。今の日本サッカー界では「出場して当然」という常識になっているが、93年のJリーグ発足までは簡単に出られる大会ではなかった。それ以前で日本が出場したのは自国開催だった79年大会だけ。アジア予選を勝ち抜くことは、相当に難易度の高いことだったのだ。

 このハードルを初めて超えたのが、95年カタール大会だ。田中孝司監督(現松江シティFC・GM)が率いたチームには中田、松田直樹、奥大介といった後のA代表メンバーがいた。チリ、スペイン、ブルンジと同組だった日本は1勝1分1敗の勝点4で2位通過。当時は出場国が16だったため、次のステージは準々決勝で、王国・ブラジルが相手。この大一番で日本は奥が先制弾を奪い、いきなりリードする。内容的にも互角以上の戦いを見せ、「ブラジルに勝てるかもしれない」という期待も高まった。が、大会MVPに輝いたカイオに2発を食らい、最終的に1-2で破れる形になった。それでも若い世代が強豪と真っ向勝負を演じ、8強入りしたことは、日本サッカー界全体の大きな弾みになった。その事実をまずはしっかりと認識してほしい。

 同チームの始動は93年夏の鹿島合宿だった。最初に指揮を執ったのは西野朗監督(タイ代表監督)。この時のワールドユース出場資格は「75年8月1日以降生まれ」だったため、候補メンバーには75年後半~76年前半生まれの選手が数多くリストアップされた。立ち上げメンバーの安永聡太郎(解説者)もそのひとり。彼は当時の状況をこう説明する。

「7月の鹿島合宿、8月のSBSカップは西野監督・山本昌邦コーチ(JFA技術委員会副委員長)体制だったけど、西野さんのアトランタ五輪代表監督就任が決まって、9月以降は田中監督・山本コーチ体制に移行しました。中心メンバーは伊藤卓(国士舘大コーチ)、大木勉、大塚真司(大宮コーチ)、山田暢久(イトゥアーノFC横浜監督兼選手)あたりで、中田や直樹が来たのは93年U-17世界選手権(日本)の後。今みたいなスカウティングシステムがなかったんで、高校総体や高校選手権で活躍した強豪校の選手がほとんどで、僕は同じ静岡のニッコ(西澤明訓=代理人)と行動をともにしてましたね。チームの合言葉は『史上初めてアジアを突破する年代になるんだ!』。昌邦さんが口癖のように言っていたのをよく覚えています」
 

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