イングランド代表引退への布石に? 名手リネカーが29年前の苦々しい“アジア遠征”を振り返る

2020年06月14日 石川聡

「トッテナムと代表の板挟みだった」

EURO92時のリネカー氏(右)。その輝かしい代表キャリアは失意のなかで幕を閉じた。(C)Getty Images

 イングランド代表として出場したFIFAワールドカップ・メキシコ1986で6ゴールをマークし、得点王に輝いたガリー・リネカー氏が、代表チームと所属クラブの狭間で苦悩したキャリア晩年を、アジアサッカー連盟(AFC)公式サイトのインタビューで振り返った。

 AFCは1991年6月12日にマレーシアのクアラルンプールで行なわれたマレーシア対イングランドの国際親善試合を回顧しながら、当時の状況が翌年のEURO92においてリネカー氏の代表キャリアに終止符を打つ「交代劇」の伏線になったと伝えている。

 リネカー氏が当時所属していたトッテナム・ホットスパーは、その1990-91シーズンを8度目のFAカップ優勝で締めくくった。国内の全日程終了後、トッテナムは日本のキリンカップサッカー91に参加するのだが、イングランド代表もオセアニア・アジア遠征に出発。当然ながら、両チームのエースストライカーであるリネカーの去就が注目された。

 結局、彼はそのどちらでもプレーした。6月1日のオーストラリア戦(シドニー)、3日のニュージーランド戦(オークランド)に出場した後、8日のニュージーランド戦を欠場。はるか東京でトッテナムに合流すると、9日の日本代表戦ではシュートを1本も撃てずに0-4の完敗。今度は南下してクアラルンプールに飛ぶという強行軍で、マレーシア戦ではイングランドの全得点を挙げて4-2の勝利に貢献した。

 しかしAFC公式サイトは、この日本行きがイングランド代表を率いていたグラハム・テイラー監督のリネカー氏に対する不信感を生んだとする。「日本で少なくとも1試合は出場してほしい」というトッテナムの要望に沿ったものというより、日本のクラブへの移籍交渉という個人的利害を優先させたと監督は憶測。イングランド代表キャプテンに相応しくない振る舞い、というわけだ。

 ちなみに、リネカー氏の名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)入りのニュースが世界を駆け巡ったのは、この年の11月。Jリーグでは創設の1993年から2シーズン、プレーしたが、負傷の影響などもあってリーグ戦は通算18試合出場、4得点にとどまった。

 もちろん、イングランド代表史上屈指のストライカーは、そのような見方を否定する。「イングランド代表のキャプテンシーというものに、いつだって敬意を払っていた。自分の国を先頭に立って引っ張るなんて、選手にとってはとてつもない名誉だ」と同氏。そのうえで「トッテナムとイングランド代表、どちらも私を出場させたがっていたという不可能ともいえる状況で、その板挟みだった」と、29年前の苦しかった胸の内を明かした。

 
 その後もリネカー氏は代表キャプテンを務めるが、スウェーデンで開催された翌年のEURO92において、彼の代表キャリアは不本意な形で終わりを告げる。

 イングランドはグループステージ初戦のデンマーク戦、続くフランス戦といずれも低調な試合ぶりでスコアレスドロー。準決勝進出が懸かるスウェーデン戦は開始3分でデイビッド・プラットが先制も、51分に追いつかれた。そして64分、指揮官はキャプテンのリネカー氏をアラン・スミス(当時アーセナル)と交代させる。不幸にしてこの采配は実を結ばず、82分に逆転を許して1-2と敗れ、イングランドはグループ最下位で早過ぎる帰国を余儀なくされたのだ。

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