【連載・東京2020】旗手怜央/中編「“静学の10番“を背負えたのは”唯一の能力“があったから」

2019年07月15日 多田哲平(サッカーダイジェスト)

「それを見ていた監督にスタメンから外されて……」

高校時代は無名だったという旗手は、いかにして大学屈指のアタッカーに成り上がったのか。ここまでのキャリアを振り返ってもらった。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

 2020年に開催される東京五輪。本連載では、活躍が期待される注目株の生い立ちや本大会への想いに迫る。
 
 4回目は、力強いドリブルと豪快なシュートが持ち味の、大学屈指のアタッカー旗手怜央が登場。
 
 三重県の強豪チームFC四日市で小学、中学時代を過ごし、高校では名門・静岡学園へと越境入学する。
 
 そして順天堂大へと進学後、世代別の代表にも選ばれ、メキメキとその頭角を現わしてきた。来年には川崎フロンターレへの加入が内定している。大学サッカーの枠を飛び越えて活躍する21歳はどんなサッカー人生を歩んできたのか。中編では、10番を背負った高校3年次から大学進学までを深く掘り下げる。一度はスタメンを外される時期にも腐らなかった――そのエネルギーの根源とは。

前編はこちらから
【連載・東京2020】旗手怜央/前編「大学屈指のアタッカーはいかに育ったのか。名門"静学"を選んだ理由」
 
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――高校3年生では10番を背負い、責任感が芽生えたのでは?
「もちろんです。静学の10番となれば、当然他の人と違わないといけません。単なる憧れだけではつけられないし、相応の重責を感じていました。それでも僕は入学当時から10番を背負うことが目標のひとつでもあったので、それが叶った時は本当に嬉しかったです」
 
――自分から志願したのですか?
「いえ、監督から発表されたんです。あれは、2年生の時の新人戦でした。メンバーに入る確信はあったんですけど、何番になるだろうと。あれだけドキドキしていたのは多分僕くらいだったんじゃないですかね」
 
――ところが、一度10番をはく奪される時期があったとか。
「はい。3年のインターハイ前に一度……」
 
――一体、何が?
「高校選抜に呼ばれるようになっていて、天狗になっていたんです。それを見ていた監督にスタメンから外されて……。今振り返れば、監督から心配してもらっていたんだと思います。このままでは僕が選手として錆びついてしまうんじゃないかと」
 

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