キーパーソンはカズだった――「セリエAダイジェスト」からネット配信までサッカーメディアの30年

2019年04月30日 加部 究

平成を迎えて世界のトップシーンが一気に身近になった

カズのセリエA挑戦を機に世界のトップシーンを地上波で楽しめる時代が到来。その後、中田英、名波、中村俊、本田、長友らが後に続いた。(C) Getty Images

 どうやら世界は、野球よりサッカーに熱狂しているらしい――。
 
 実は日本人が薄々そこに気づき始めたのは、ほんの半世紀ほど前のことである。55年前の東京五輪を控え、各メディアが世界各地に特派員を送り現地のスポーツ事情を伝え始めた。それが端緒となったそうである。昭和も後半に入るとワールドカップの中継も定着し、日本の不振と相俟って海の外の別世界に憧憬を抱くファンが着実に増えていく。ペレを擁すサントスが来日すると、JFA(日本サッカー協会)は初めてチケット発売に徹夜対応を強いられ、日本代表の試合は来日する対戦相手の人気次第で観客動員が決まった。


 ところが平成を迎えると、世界のトップシーンが一気に身近になった。改めてキーパーソンは三浦知良(カズ)だった。新時代の幕開けとともにブラジルから帰国したカズは、Jリーグブームと日本代表の躍進に点火し、「ドーハの悲劇」でワールドカップ出場を逃すと、今度はセリエAに挑戦する。世界のスター選手が勢揃いするセリエAの中継は、すでに「WOWOW」が着手していたが、カズの参戦が決まるとフジテレビも放映権を獲得。カズが所属するジェノア戦の中継とともに、毎節深夜枠で「セリエAダイジェスト」をスタートした。地上波でも世界最高峰の舞台を楽しめる時代の到来である。
 
 カズの読売クラブ(現東京ヴェルディ)への移籍と同じ時期に、ドイツから来日したゲルト・エンゲルス(現京都サンガ・コーチ)は「何より悲しかったのが、いくら探してもテレビでサッカー中継がまったくないことだった」と振り返っている。昭和の時代に日本のファンが本場の映像を定期的に楽しめるのは、1試合を前後半に分けて毎週放映される「三菱ダイヤモンドサッカー」だけだった。だが番組は昭和終焉の前年に打ち切り。
 
「セリエAダイジェスト」は、カズの挑戦を引き金に、欧州志向のファンの渇望に応える形で誕生した。ただし地上波で届ける以上、コアなファンだけを対象にするわけにはいかない。カタカナで表記される多国籍で多様なスターに親しみを覚えてもらおうと、スタッフは工夫をこらした。毎回キャッチフレーズ付きのストライカーを枠順に並べゴールを決めるかどうかのクイズを作成し、ナレーションでも大胆なキャラクター設定をした。一方で注目の試合を抽出し、初見での解説をつけるなど本物を生に近い臨場感で伝えることにもこだわった。
 
 カズがイタリアから去っても、フランス・ワールドカップを挟んで中田英寿がペルージャに移籍し、番組は再開。2002年日韓ワールドカップの熱狂へと繋がっていく。また紙媒体に目を転じても、Jリーグが開幕する1990年代には「ワールド」の名がつく専門誌も次々に創刊。国際的には奇異な2002年のデビッド・ベッカムやイルハン・マンスズの人気沸騰なども加わり、国内でのブーム到来を追いかけて世界への興味も広がり、サッカー熱そのものが最高潮に達した。
 

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