【コラム】なぜブラジル撃破後の西野氏はバルセロナへ渡り、代表選手はハリルの方針に異を唱えたのか?

2018年04月10日 加部 究

日本は「組織で主導権を握る」ためにテクニカルで判断の速い選手の育成を目指してきた

96年のアトランタ五輪でブラジルを破った西野監督率いる日本。しかし、その戦いぶりがJFAに評価されることはなく…。(C) Getty Images

 まずJFA(日本サッカー協会)が明示するべきなのは、「日本らしいサッカーの実現」と「ワールドカップの結果」で、どちらを最優先するのか、である。
 
 ヴァイッド・ハリルホジッチ監督の方針に選手たちが異を唱えるのは、最近の日本の育成事情を辿れば必然だった。もちろん極端な例外もあるが、多くの現場は「日本は個では勝てないから、組織で主導権を握る」ためにテクニカルで判断の速い選手の育成を目指してきた。一時Jクラブの監督たちが、合言葉のように攻守の連動を掲げたように、それを具現できる選手をイメージして指導に尽力したはずだ。奇しくも西野朗新監督と、アルベルト・ザッケローニ元代表監督は、終盤のパワープレーを同じ理由で否定している。選手たちに、そういう発想と習慣がない以上、無理だとの見解だった。

 
 ところがそういう国内事情に反し、前任の霜田正浩技術委員長が招聘したのは、徹底したリアリストだった。ハリルホジッチ監督がアルジェリアを成功に導くことが出来たのは、対戦相手に応じて巧みに「個の力」を引き出したからだ。だが日本は、アルジェリアとは対極の性格の国で、同じ方法論が最も適合し難かった。結局いくらポゼッションを高め、チャンスの山を築いても決め切れない日本代表を目の当たりにして、指揮官は極力リスクを減らし確率の低いカウンターに依存するスタイルへと加速した。最終ラインから前線へロングフィードの回数が目に見えて増え、必然的に互いの距離間は広がり、個への依存度が増した。それはライバルのオーストラリアとは、対照的な変容だった。
 

次ページ96年、西野監督は理想を捨てて現実的な戦いに徹し、優勝候補筆頭を下したが…

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