【黄金世代】第1回・小野伸二「快進撃と悲劇~1999年の衝撃」(♯2)

2017年04月26日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

一番サッカーを楽しんでた時期かもしれない。

まさに栄光と挫折が入り乱れた1999年。当時を振り返る小野の言葉にも力が入った。写真:高橋茂夫

 小野伸二がサッカーボールを蹴り始めたのは、「たぶん保育園の5歳くらい」だったという。
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 いろんなスポーツを遊びでやりながら、近所の友だちとボールを蹴っていた。次第にのめり込んでいくのだが、小学校3年までは特定のサッカーチームに属していなかった。
 
 ある日、そんなシンジ少年に転機が訪れる。
 
 たまたま家の前を通りかかった友だちが「これからサッカーのトレーニングに行くんだ」と言い、「じゃあ俺も付いていく」となり、彼はグラウンドの片隅でひとりリフティングをしていたという。それがどんなレベルの代物だったかは分からない。それを見たコーチに「一緒にやらないか?」と声をかけられ、サッカー選手としての第一歩を踏み出すことになるのだ。ちなみに小学校時代は「けっこうデカかった」。
 
 天才少年はメキメキと頭角を現わし、13歳で初めてU-16日本代表に選ばれるなど、サッカー王国・静岡でも知られた存在となっていく。

 幼少期のアイドルはディエゴ・マラドーナで、それはいまも変わらない。ボールキープしているときの佇まいが、どことなくアルゼンチン代表のレジェンドを彷彿させるのは、偶然ではないだろう。
 
「なんかね、ボール持った瞬間にワクワクするじゃないですか。いったいこのあと、なにをするんだろうって。小さい頃からずっと好きですね。いつか会えたらいいなと思ってます」
 
 やがて中学を卒業し、"キヨショウ"こと名門・清水市立商業高校(現・清水桜が丘高校)の門を叩く。入部してまもなく、それまでのサッカー人生で味わったことのない衝撃を受けたという。
 
「小学校から中学校に上がったときって、それはそれでフィジカルの違いとか厳しさを感じたけど、それどころじゃなかった。すぐに『これは付いていけないな』と思って、最初逃げ出しそうになりましたから。冗談じゃなく。練習がハードすぎて、フィジカルが通じないうえに無茶苦茶スピードが速い。本当にどうにもならなかった」
 
 全国区のタレントが集う強豪校で小野は、1年時からレギュラーを張った。インターハイや全日本ユースで優勝を飾り、最終学年はキャプテンとして最強メンバーを率いたが……。高校選手権だけは一度も出場できなかった。シンジの七不思議のひとつだ。
 
「もちろん悔しかったけど、自分はこれからプロになるし、そこで成功すれば忘れられるって考えてました。あの頃は。
 
 だけど、最近になって思うんですよ。僕はいまでもサッカー選手でやってるけど、当時の仲間たちにとって選手権ってのは、やっぱり大事な存在だったんだなって。あそこに行ってる行ってないで、その後の人生がもしかしたら変わっていたかもしれない。そう考えたら申し訳なかったなって思います」

 
 いかにも小野らしい。だが、当時のチームメイトの誰ひとりとしてそうは考えていないだろう。わたしが知るかぎり、メンバーの多くはいまでも誇りに感じている。小野伸二と同じ校庭で汗を流し、ボールを追い、そして涙を流したことを。
 
 フットボーラーとしての礎を築いたキヨショウでの3年間は、かけがえのない日々だった。
 
「サッカーの厳しさを教わった3年間でしたね。仲間の大切さ、先輩後輩の信頼関係、チームとして一丸となって戦う姿勢。毎日毎日、必死に食らいついて、とことん追い込んでました。でもいま思えば、高校の3年間とプロ1年目にかけてが、一番サッカーを楽しんでた時期かもしれない。いま思えば、ね」
 

次ページいつ落とされるか分からないって危機感があった。

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