【連載】小宮良之の『日本サッカー兵法書』其の百零一「確信を与える論理 or 論理を超越する勝負運――監督に必要なのは?」

2016年12月13日 小宮良之

勝負運という表現はサッカーそのものを曖昧にする要素もある。

よく「結果が全て」といわれるが、その一方で、勝つにせよ、負けるにせよ、そこに明確な必然性がなければ満足できない指揮官も少なくない。写真は、勝負強さを発揮して清水をJ1昇格に導いた小林監督。 写真:佐藤 明(サッカーダイジェスト写真部)

 勝負運――。
 
 それはサッカー指導者にとって、欠かせない素養のひとつかも知れない。
 
 今シーズン、J2でセレッソ大阪を率いて昇格プレーオフを勝ち上がった大熊清監督、同じく清水エスパルスを自動昇格に導いた小林伸二監督。このふたりは如才なく、度量が広く、そして勝負運に恵まれた指揮官と言えるだろう。
 
 どちらも「昇格請負人」の異名を取るが、結果に対してコミットできるのも強みだ。
 
 しかし、勝負強さの正体とは何だろうか?
 
 球体は1ミリ当てるところが違うだけで、1メートルは軌道が変わってくる。つまり、相当な技術が必要になるわけだが、その誤差を気持ちでカバーする。そこに、勝負強さはあるのかも知れない。
 
 諦めず、信じ切って戦う。
 
 そう言い換えても良いだろう。それはロジックと、必ずしも符合しない。むしろ、対極にあると言っても良いだろう。論理を超えた力である。
 
 その非論理を味方にできる指揮官は、"人間"を見られる。試合に向けて集中できているか、不屈の闘志で挑めるか。メンタルというと茫洋としたものになってしまうが、戦いにおける覇気。その心を見抜き、ひとつに束ねられる。それは求心力、統率力に置き換えられるかもしれない。
 
 勝ち負けに全てを投入し、勝利を掴み取れる指揮官は偉大だ。しかし、勝負運という表現は、サッカーそのものを曖昧にする要素もある。
 
「フットボールはロジカルであるべきだ。日々、具体的にどんなトレーニングをしているのか、監督の仕事の本質はその緻密さにある。試合はそれが出るだけで、勝つ時があれば、負ける時もある」
 
 かつてレアル・マドリーを率いたベニート・フローロが、こう話してくれたことがある。プロ選手のキャリアがなく、戦術家として注目されたフローロは、勝負運という偶然性を頭から否定していた。
 
「運があるとかないとか、私には理解できないし、したくもない。私は必然を求める。そもそも、トーナメントのような大会には重きを置かない。その点、リーグ戦は結果に対する必然性がより高く、価値がある。目の前の試合だけに囚われ、やり方を変えて勝っても、ロジックは上積みされない」

次ページ理論派にとって勝負運のなさを嘆くことは自己の否定に繋がる。

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