【追悼コラム】選手、監督として「カルチョ黄金時代」の礎を築いたチェーザレ・マルディーニの生涯

2016年04月07日 片野道郎

イタリア勢初の欧州制覇を成し遂げたミランで主将を務める。

チャンピオンズ・カップを制覇し、トロフィーを掲げるチェーザレ・マルディーニ。ミランでは公式戦通算412試合に出場し、一時代を築いた。(C)Getty Images

 4月3日、元イタリア代表監督チェーザレ・マルディーニが死去した。享年84歳。
 
 日本のファンには、イタリア(1998年フランス・ワールドカップ)とパラグアイ(2002年日韓ワールドカップ)の代表監督、そしてそれ以上にパオロ・マルディーニの父としてのイメージが強いかもしれない。しかしチェーザレは彼自身、20世紀後半のイタリアサッカーが過ごした多くの栄光を当事者として担ってきた、文字通り「カルチョ黄金時代の生き証人」とでも呼ぶべき存在だった。
 
 32年、イタリア北東のはずれ、スロベニアと国境を接する港町トリエステで生まれ、20歳のときに地元のトリエスティーナでセリエAにデビュー。当時としては長身の体躯(183センチ)に、スムーズな身のこなしと高いテクニックを備えたエレガントなDFだった。
 
 当時トリエスティーナを率いていたのは、その後ミランで二度のチャンピオンズ・カップを勝ち取ることになるネレオ・ロッコ。「グランデ・インテル」を率いたエレニオ・エレーラと並んで60年代のセリエAを代表する名将であるロッコを、チェーザレは終生の師として慕い続けた。
 
 22歳で移籍したミランでは、その後12シーズンにわたってディフェンスを支え続け、最後の5シーズンはキャプテンを務めるなど、クラブの歴史に名前を残すレジェンドのひとりとなる。
 
 その余裕に満ちた優雅なプレーぶりから、ミラニスタたちは「チェザローネ・イル・グランデ」(偉大なる大チェーザレ)と呼んで愛情を注いだ。
 
 時にはそのテクニックへの過信とナルシシズムが仇となり、自陣で敵FWをかわそうとして逆にボールを奪われピンチを招くこともあった。しかしサン・シーロのサポーターたちはそんなミスも「マルディナータ」(マルディーニ的振る舞い)と呼んで、笑って許したのだった。
 
 近年はアントニオ・カッサーノ(サンプドリア)の軌を逸した振る舞いが「カッサナータ」と言われるが、この呼び方のオリジンは40年も前のチェーザレ・マルディーニにあったというわけだ。
 
 キャリアのピークを印したのは62-63シーズン、ほかでもないロッコ監督の下、ウェンブリーで「黒豹」エウゼビオを擁するベンフィカを2-1で下し、イタリア勢として初めて勝ち取ったチャンピオンズ・カップのタイトルだ。キャプテンとして優勝トロフィーを天に掲げた写真は、その偉大なキャリアのイコン(象徴するもの)としてその後何十年もの間、マスコミで繰り返し使われることになる。

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