【コラム】左足1本で日本人を翻弄――。クライフがアマ時代の日本に蒔いた「憧れ」という種

2016年03月29日 加部 究

ワシントン・ディプロマッツの一員として来日。利き足を負傷していたが…。

クライフを偲ぶ多くの人々がバルセロナの本拠カンプ・ノウへ弔問に訪れた。(C) Getty Images

 もう20年近く前のことだが、日本の記者やカメラマン連中が集まってプレスチームを結成した。親睦会のような試合をこなすだけなので「背番号は自由」と決まったら、腹の出た14番が溢れることになった。それは人生で最も醜悪な光景だったが、個々の気持ちは十分に理解できて微笑ましくもあった。
 
 1974年七夕の夜、日本のファンは初めてヨハン・クライフの映像を目にした。テレビ東京が日本初のワールドカップ生中継に挑戦し、決勝戦の模様を届けた。オランダは決勝で敗れたが、明らかに大会の主役となった。
 
 それどころかトータルフットボールという未来図を提示し、その中心となったクライフは世界中の憧憬の的となる。当然アマチュア時代真っ只中の日本からすれば、遥か雲の上の存在だった。
 
 どれだけかけ離れた存在なのかが確認できたのは、1980年にワシントン・ディプロマッツの一員として来日した時だった。ヤンマーと対戦した当時33歳のクライフは、利き足を酷く痛めていたので立ったまま左足だけでプレーをした。もともとクライフは、切れ味鋭いスピードやしなやかな躍動感が際立つ選手だった。それが動かず不得意な左足1本で完全にゲームをコントロールしてしまう。これだけ武器を失っても、頭脳と技術だけで十分に突出した存在だったのだ。
 

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