「僕の根底には鹿島の血が流れている」波瀾万丈キャリアを歩んだ49歳・阿部敏之はいまだ“引退”を表明していない

2023年10月04日 河野 正

なぜ鹿島からJ2降格が決まっていた浦和へ移籍したのか

今年のフットゴルフW杯に出場した阿部(左)。元アルゼンチ代表DFアジャラとの2ショットだ。写真:本人提供

 鹿島アントラーズでプロデビューした阿部敏之は、正確な左足キックと甘いマスクで人気を博した。浦和レッズやベガルタ仙台、アルビレックス新潟にも在籍し、最後は鹿島に戻ってJリーガーとしてのキャリアを終えた。その後は社会人チームや大学の指導者を歴任。フットゴルフと出会ってからは、プレーを楽しむ一方で普及活動にも尽力している。

 阿部は浦和田島中の3年時に全国中学校大会で3位に入り、帝京高2年の全国高校選手権では得点王を獲得した松波正信とともに活躍し、四日市中央工高と優勝を分け合った。筑波大へ推薦入学した1993年にJリーグが開幕したが、プロに進む選択肢はなかったのか? 「まだJリーグが成功するかどうかも分からなかったし、あの頃の自分ではフィジカルや1対1の強度で通用しないと思い、大学経由でも遅くはないと判断したんです」と説明した。

 しかし筑波大では出場機会が極めて少なく、失意の時を過ごした。そんな2年生の夏、鹿島との練習試合で思いもよらぬ招きがあった。就任したばかりのエドゥ監督から「いますぐ、うちに来い」と誘われたのだ。2年生の履修が終わって中退し、95年に名門クラブの一員となった。

 1年目はリーグ戦14試合に出場。前年の米国ワールドカップを制したブラジル代表MFレオナルド、DFジョルジーニョといった世界的名手と一緒にプレーできた。「鹿島のレベルは想像をはるかに超えるほど高く、すごく楽しかった」と振り返る。

 ジョアン・カルロス監督に代わった96年は、リーグ戦出場がない。若手を積極的に登用したエドゥ監督とは対極で、堅実な戦いを志向したからだ。武者修行を希望し、クラブに期限付き移籍を申し出たが認めてもらえなかった。それでも粘り強く懇願した末、ジーコが96年に創設したリオデジャネイロ州3部、CFZ・ド・リオに97年3月から8月まで短期留学。この経験がサッカーと向き合う姿勢を一変させた。

「貧しいなかでもがきながら、命懸けでサッカーに情熱を注ぐ人たちを目の当たりにしたら、甘えていた自分に気づいた。もっと本気で取り組まないといけないと痛感しました。なにかを変えたというより、そんな意識の変化が自分を強くした」
 
 98年は左の2列目を担当。右のビスマルクとともに攻撃の中心選手となった。第2ステージ第8節の京都パープルサンガ戦でJリーグ初得点。ジュビロ磐田とのチャンピオンシップ第1戦に先発し、第2戦にも途中出場して年間王者獲得に貢献した。

 99年もリーグ戦26試合に出場し、すっかり中盤の要人に成長したのだが、自ら移籍を志願する。本田泰人、相馬直樹らと台頭してきた小笠原満男、中田浩二らの世代に挟まれ、クラブからの評価が低かったからだ。

 慰留されたが挑戦したい欲望が強くオファーが届いた浦和、ガンバ大阪、清水エスパルスのなかから、あえてJ2陥落が決まっていた浦和を選んだ。「(G大阪の)松波ともう一度やりたい思いもあったけど、やっぱり浦和は地元なので決めました」と古里への愛情が背中を押した。浦和田島中と鹿島の同僚、DF室井市衛も一緒に浦和へ移籍する。

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