「いつになっても指導者は学ばないとね」小嶺先生が持ち続けた情熱と“生涯チャレンジ”の姿勢 最期まで肩書きは監督のまま…

2022年01月08日 松尾祐希

選手に対する愛情は人一倍。遠い過去の話になっても、パッと名前が出てくるワケは?

7日に逝去された長崎総科大附の小嶺監督。長きにわたり育成に情熱を注ぎ込んだ。写真:サッカーダイジェスト

 1月7日の早朝、小嶺忠敏監督がお亡くなりになられた。76歳だった。

 2015年から監督として長崎総科大附を率い、チームは現在行なわれている高校サッカー選手権にも出場。小嶺監督は今大会、体調不良のためチームに帯同しておらず、そうしたなかでの訃報だった。
 
 高校サッカーに携わって53年。島原商で指導者人生をスタートさせ、その後赴任した国見では一時代を築いた。選手権を6度全国制覇。この記録は同時期に鎬を削った元帝京監督・古沼貞雄氏と並んで戦後最多タイの数字である。

 チームとして数々の偉業を成し遂げる一方で、人材の育成にも注力されてきた。プロの世界で活躍した選手は数知れない。近年ではJ1通算最多ゴールの記録を持つ大久保嘉人氏(国見高出身、元C大阪ほか)や、選手権での活躍が記憶に新しい平山相太氏(国見高出身、元FC東京ほか)らが多くの功績を残してきた。また、多くの教え子が選手だけではなく指導者としても活躍。島原商時代の教え子である小林伸二氏(現北九州スポーツダイレクター)は昇格請負人として名を馳せ、高木琢也氏(国見高出身、現相模原監督)、三浦淳寛氏(国見高出身、現神戸監督)なども監督として実績を重ねている。高校サッカー界では島原商で指導した山田耕介氏が前橋育英を名門校に育て上げ、今冬の選手権でもベスト8入りを果たした。

 半世紀以上も子どもたちとともに歩み、サッカー界のために情熱を注ぎ込んできた小嶺先生。熱い想いは途切れず、むしろその情熱は年々増していたようにさえ感じさせられた。

 雨の日でも風の日でも関係ない。どんな時もグラウンドに立ち、時に厳しく、時に優しく、生徒に語りかけてきた。選手に対する愛情は人一倍で、いきなり遠い過去の話になっても、パッと名前が出てくる。その理由を先生に聞くと、「卒業生はたくさんいるから、名前覚えるのは大変なんだ。だから、女房に管理してもらっているんだけど、家に卒業生の名簿があるんだよ。『こういう話はこいつに聞けば分かる』『こいつはマメな性格だから、取りまとめをお願いしよう』とかねぇ。そこに全部どんなやつだったかをメモしてるんだよ」と教えてくれた。教え子はいつまで経っても教え子。どんな生徒であっても、当時の思い出話が出てくるのはまさに、子どもたちへの愛だった。
 

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