驚異の男・桜井直人が貫いた生きザマ。45歳、“ドリブル修練所”に込めた強烈なこだわりとイズム

2021年08月11日 河野正

「さくらいは、さすらいのドリブラーだな」

現役時代さながらの情熱で少年少女たちと向き合う桜井氏。ドリブルに特化したスクールを主宰する。写真:河野正

 生まれ育った地元の人気クラブ、浦和レッズでプロのキャリアをスタートさせた桜井直人は、ヴェルディ川崎と東京ヴェルディ、大宮アルディージャでドリブラーとして活躍。引退後は古巣の大宮と浦和で普及活動に携わり、2013年からはドリブルに特化したスクールを主宰し、小学生の指導に情熱を注いでいる。

 母校の浦和三室中学は、1999年の全国中学校サッカー大会で初優勝したが、桜井は小・中・高校で全国大会の経験がない。大宮東高校ではひとつ上に松田悦典(浦和など)、ひとつ下に大森征之(名古屋など)と増田功作(横浜FCなど)、ふたつ下に佐藤悠介(名古屋など)というJリーグに進んだ有能な人材がいた。しかしレギュラーになった3年生の時、全国高校選手権もインターハイも国体もすべて予選敗退。実力はあったが知名度が低く、Jリーグクラブから声は掛からなかった。

 やむなく大学進学を考えていた折、大宮東の中村崇監督が浦和の練習へ参加する段取りをつけてくれた。サテライトチームで3日間試され、トップチームの斉藤和夫コーチに認めてもらい、練習生の肩書でJリーグ2年目の94年に加入した。

 2年間練習生だった桜井は、「1年目はトップチームが使う大原サッカー場で練習したことがないので、横山(謙三)監督とは1度もしゃべっていません」と笑い、「でも夢だったJリーガーになれたのだから絶対に成功したい、ってサテライトの選手はみんな思っていましたよ」と当時の心意気を明かす。
 
 1年目は公式戦に出場できなかったが、2年目はリーグ5試合を経験。「半端なく走り込んでフィジカルを強化し、当たり負けしなくなったことでやれる自信がついた」と言う3年目にプロ契約を交わした。

 桜井の父・勝利さんは92年のバルセロナ、96年のアトランタ両五輪で重量挙げの日本代表監督を務め、日本ウェイトリフティング協会専務理事も歴任した大御所だ。息子も肉体を作り上げる術を心得ていた。

 3年目は公式戦6試合、4年目が同5試合、原博実監督が就任した98年は同9試合に出場し、ナビスコカップではプロ初得点を記録。切れ味鋭いドリブルが武器で、福田正博、岡野雅行、永井雄一郎のようにボールを運ぶ姿が一番の魅力だった。原監督は「さくらいは、さすらいのドリブラーだな」とギャグを放ちながら、「サクが球を持つとどこまでも突き進むね。さらにドリブルに磨きを掛けてほしい」と期待したものだ。

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