酒井に代わってNZ戦に出場か?橋岡大樹の才能を育んだある家族と指導者たちとの出会い【東京五輪メンバーのルーツ探訪】

2021年07月31日 河野 正

5年生の秋、選抜チームのFC浦和に招集される

小学生時代の橋岡。当時から身体能力は図抜けていた。写真提供:橋岡和正

 東京五輪で悲願の金メダル獲得を期す、選ばれし22人。全世界注目の戦いに挑んでいる彼らは、この大舞台に辿り着くまでどんなキャリアを歩んできたのか。

 フランス戦では右SBとして途中出場して奮闘し、ムード―メーカーとしてもチームを盛り上げる。そんな橋岡大樹は埼玉県浦和市で生まれ、その才能を育くんでいった。その成長の過程には、サッカー街での様々な出会いがある。

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 旧浦和市は日本でも指折りのサッカーの街だ。それは昭和の時代からサッカー少年団の団数と団員数が、軟式野球やバスケットボールより多かった歴史を見れば分かる。かつては市内すべての小学校にサッカー少年団があり、現在も国内最多の36チームが活動している。

 各少年団の凄腕を集めた選抜チームFC浦和は、全日本少年大会で、静岡・清水FCの8度に次ぐ4度の優勝を数える名門だ。橋岡大樹の3つ上の兄・和樹もその主力として、2008年の第32回大会を制した。

 小学校に上がった橋岡が兄の応援に出掛けるようになると、FC浦和で兄のチームメイトだった勝野瑛の父・敏志と出会う。ここから両家は昵懇の仲となり、中でも橋岡は勝野家の"末っ子"として、今でも可愛がられている。
 
 親の忠告に馬耳東風でも、勝野の説教は聞く。中学生になると母の深雪は「もっと真面目にやるように言って下さい」としばしば頼ったほどだ。面倒を見てもらった瑛への義理も絶対に欠かない。

 サッカーを始めた6歳から、橋岡はGKに憧れた。「GKでもないのにGK練習ばかりしていたので、インサイドキックの練習とリフティングをするよう、会うたびに指示しました」と勝野は回想する。

 元FC東京の浅利悟も在籍した浦和大久保少年団で力を付け、6年生で170センチになったFWは、得点を量産するエースとして鳴らした。

 08年の全日本少年大会でチームを優勝に導いた町田隆治監督は5年生の秋、橋岡をFC浦和に招集。「一瞬のスピードと身体の強さが特長で、得点感覚も高かった。身体の使い方が上手く、基礎が出来上がっていましたね」と当時の姿を解説する。
 

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