「20代前半でのクビも仕方ないと…」悩める平川忠亮を浦和のバンディエラに押し上げた存在

2021年07月22日 河野 正

加入1カ月の時点では不安に駆られていた

18年シーズン限りで現役を引退した平川。今年7月22日に引退試合を開催する。(C)SOCCER DIGEST

「平川、石川、羽生の1年生は別格の存在で、ちょっとモノが違いました。全国には推薦枠で筑波大を志望する優秀な高校生がたくさんいましたが、その中でも彼らは飛び抜けた素材でしたね」

 平川忠亮や石川竜也、羽生直剛が筑波大学に進学した1998年、蹴球部のヘッドコーチだった菊原伸郎・埼玉大学准教授はこう回想する。

 1年生から活躍した平川は、全日本大学選抜では主将としてチームを束ね、2001年のユニバーシアード北京大会優勝に寄与。複数のJリーグクラブから誘われ、02年に盟友・小野伸二も在籍した浦和レッズに加入した。私は「02年」というのが平川にとっては時機到来で、浦和を代表する選手に栄達できた要因のひとつだと思っている。ハンス・オフト監督が就任したからだ。

 彼は参謀のビム・ヤンセンコーチとともに、トップチームの強化と並行して人材の育成に力を注ぎ、才気煥発な若手を次々と登用。平川と同期の坪井慶介をはじめ、2つ下の鈴木啓太と山瀬功治、3つ年少の田中達也、4つ下の長谷部誠はいずれもオフト監督の指導によって一流選手へと歩み始めたのだ。

「先日の練習試合でたまたまアピールできましたが、それまでは20代前半でクビになっても仕方ないと思っていました」
 
 鹿児島県指宿市での強化合宿で、新人の平川を何度か取材したなか、この言葉はとても興味深く、後年思い返してみると驚きでもある。浦和に17年も在籍し、引退試合まで用意してもらった男が、加入1カ月の時点ではこんな不安に駆られていたのだから。

 その一方でプロフットボーラーとしての野心も忘れず、「山田さんに競争で勝って試合に出たい。右サイドにはこだわっているけど、チャンスを与えてもらえば違うポジションもこなせる選手になりたいですね」と当時、SBとしてもウイングバックとしても、不動の右サイドだった山田暢久とのレギュラー争いにも闘志をたぎらせた。

 浦和でのキャリアの大半、平川は打倒・山田に照準を合わせていた。
 

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