【連載】小宮良之の『日本サッカー兵法書』 其の九「正義と悪」

2015年03月12日 小宮良之

無垢な正義より、したたかな悪が求められる場合も。

華麗なポゼッションサッカーで欧州を席巻したバルセロナでさえ、かつての輝きは放てていない。それとは逆の、強烈なプレスからのカウンターサッカーこそが、世界では主流になっている。(C)Getty IMAGES

 いつから日本サッカー界には、ポゼッション信仰が生まれたのだろうか? 
 
 育成現場を含め、ポゼッションが"正義"になってしまった。一時は長いボールを裏のスペースに蹴り込む行為を嘲笑するような雰囲気すらあったという。選手たちは指導者からボール技術で選別を受け、必然的につなぐプレーに執着するようになった。
 
「自分たちがボールを支配していれば、決して負けない」
 
 ポゼッションはその点、ひとつの正義なのだろう。
 
 元日本代表監督のアルベルト・ザッケローニが目指した道もそれであった。そのスタイルはアジアで結果を残し、世界の列強をたびたび驚かせた。コンフェデ杯のイタリア戦(13年6月20日/●3-4)はザックジャパンのベストゲームだった。
 
 しかし自分たちの正義に執着するあまり、ブラジル・ワールドカップでは敵を顧みず、"悪"に敗れ去っている。
 
 ポゼッションの綻びを狙い、強烈なプレッシングからカウンターを仕掛けてくる"悪"こそが、世界では主流になっている。守備のブロックをしっかり敷き、相手を誘い込んだうえで速攻に転じる戦いはすでに常道と言えるだろう。ボールを持ち運ぶ瞬間を狙い、奪って体勢を入れ替えると一気に有利になる。当然だが、その悪は正義に勝つ場合がある。そして勝ってしまえば、それが正義なのだ。
 
 人生と同じように理不尽なのが、フットボールの本質ということだろうか。
 
 ポゼッションという正義を遂行するには、傑出した技術力と戦術力をチーム全体で持ち合わせていることが条件だ。
 
「決してボールを失わないシャビが全盛だったからこそ、バルサもあのポゼッションができたのさ」
 
 最近になってそう囁かれているように、ポゼッションの"名家"バルセロナですら、スタイルの実現は容易ではない。傑出した選手たちの完璧なプレーが求められるからだ。
 
 勝負の局面では、無垢な正義よりもしたたかな悪が求められる場合もある。

次ページ90分間のマネジメントを改めて突き詰めるべき。

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