あのブラジル人J戦士はいま【第6回】ポンテ――「日本に恩返しがしたい」ポルティモネンセのTD兼副会長として中島翔哉らの獲得に尽力

2020年09月09日 沢田啓明

献身的にプレーする姿がサポーターを魅了

07年にMVPに輝くなど浦和の黄金期を支えたポンテ。(C)SOCCER DIGEST

 2000年代後半、浦和レッズに数々のタイトルをもたらしてサポーターを熱狂させた。

 ブラジル人らしい柔らかいテクニックを持ち、巧みなドリブルと鮮やかなスルーパスで相手守備陣を切り裂き、自らも高い決定力を発揮。その一方で、ブラジル人らしからぬ勤勉さで守備にも寄与した。

 テクニシャンでありながら、チームの勝利のため献身的にプレーする姿がサポーターを魅了した。ポンテはJリーグ史上、サポーターにもっとも愛された選手の一人でもある。

 サンパウロ市内の小クラブであるジュベントスの下部組織で育ち、1995年に18歳でデビュー。中堅クラブを経て、22歳でブンデスリーガのレバークーゼンへ。ヴォルフスブルクへ2年間の期限付き移籍をして経験を積み、04年にレバークーセンへ復帰すると、04-05年はレギュラーとして活躍。このシーズンのチャンピオンズ・リーグに出場し、ホームでレアル・マドリーに快勝するなど、ベスト16入りに貢献した。
 
 そして、04年から監督を務めていたギド・ブッフバルトに誘われ、05年7月に浦和に加入する。背番号10を付けて、攻撃の中心を担った。

 ポルトガル語でブラジル出身の選手と、ドイツ語でブッフバルト監督らと直接コミュニケーションを取り、チームの潤滑油としての役割も果たした。

 05年の天皇杯を制覇すると、06年のJリーグ初制覇にも大きく貢献。圧巻だったのは07年で、Jリーグで7得点・12アシストを記録してMVPに選ばれ、アジア・チャンピオンズリーグでも5ゴールをあげて初制覇の立役者となった。

 10年末、度重なる怪我もあって、惜しまれながら浦和を退団。ブラジルの中堅クラブで短期間プレーした後、11年末に現役を引退した。

 その後、親友(選手時代の代理人)がポルトガル1部ポルティモネンセの筆頭株主となり、彼からの要請で16年末に、クラブのテニクカル・ディレクターに就任。主として外国人選手の獲得を担当し、18年からは副会長を兼務してクラブのマネジメントにも関与する。

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