僕らの現実。ドラッグや酒に走り、そして死に至る宿命――【元アルゼンチン代表DFの手記/第1章】

2020年05月24日 サッカーダイジェストWeb編集部

13歳の時の強烈な記憶

まだあどけなさが残る若き日のプラセンテ。後に代表戦士となる彼のプロサッカー選手への人生は、この時から始まった。 (C) Gentileza/AJ

 かつて多士済々のアルゼンチン代表で欠かせない左サイドバックとして名を刻んだディエゴ・プラセンテを覚えているだろうか。

 1995年に母国の名門アルヘンティノスでプロデビューを飾って以来、リーベル・プレートやドイツの古豪レバークーゼンなど世界を股にかけて名立たるクラブを渡り歩き、トレードマークとなった美しい長髪も愛された、あの名手だ。

 現在、アルゼンチンU-15代表を率いる男の人生は、決して順風満帆というわけではなかった。その経験をまとめた手記を全3回に分けてお届けする。

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 アルヘンティノス・ジュニオルスのカテゴリア77(※77年生まれの選手によって構成された下部組織のカテゴリー)の仲間たちと再会した。

 何度か『WhatsApp』のグループを通じて連絡を取り合った末に、久々に僕の人生に戻って来た彼らと、ルイス・"ウィチ"・パレデスの家で集まり、みんなでアサード(※アルゼンチン式バーベキュー)をすることになった。

 カテゴリア77の面々と、こうして集まるのは、自分の原点や現実といったものについて考えるきっかけをくれる。僕の現実と、彼らの現実。つい最近のようでありながら、ずいぶん昔のようにも感じられる現実を、だ。

 もしも、彼らがトップチームでプレーしていたら、一体どんな人生になっていただろうか。
 
 かつて常連のようにうろついていた「6月20日地区」を闊歩するのは、もう僕の日常の一部ではなくなってしまった。でも、ウィチの家に行き、久しぶりにサン・フストのロータリーを渡り、ナイトクラブ「スカイラブ」のドアの前を通って、国道3号線を進んで団地に着き、かつてのチームメイトたちと再会した途端、青春時代の美しい思い出が、溢れかえるように蘇ってきた。

 そこには喜びと誇り、そして痛みも入り混じっている。もうここにはいない仲間への痛み、叶わなかった夢への痛み、宿命をねじ曲げることの出来なかった者たちへの痛み。日雇いの仕事をして福祉手当てをもらい、ドラッグや酒に走り、そして死に至った宿命――。

 イシドロ・カサノバ市にある「6月20日地区」に初めて寝泊まりした日のことは、強く記憶に残っている。僕が13歳の時だ。

 1990年10月のある朝だ。ラ・パテルナル区にあったアルヘンティノスの古いカンチャ(※サッカー場)で練習した後、僕らは青と黄色の113番のバスに乗って、果てしなく遠いサン・フストのロータリーまで行った。

 僕らが心酔していたキャプテン、パブロ・"ボギー"・エスキベルは、運賃を浮かすためにスパイクケースから白衣(訳者注:公立校の制服である白衣を着ることで学生割引が利用できる)を取り出しながら、目的地に向かうみんなにこう言い聞かせた。

「一番安い切符を買って、あとは寝たふりをするんだぞ。そうでもしないと高くつくからな。もし、運転手に見つかったら、寝過ごしたせいですっかり降り損なったって言うんだ」

 ボギーは歳のわり大人びていた。尊敬されていた理由を説明するまでもないだろう?

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