「サッカーが嫌いに…」「物凄く辛かった」7か月で終焉したファルカンJAPANの真相【名勝負の後日談】

2020年05月04日 加部 究

短期集中連載【名勝負の後日談】vol.5 94広島アジア大会・日韓戦|多くの若手を登用したファルカン

94年に日本代表を率いたファルカン(左)とチームの主軸を担ったカズ(右)。結果を求められた広島アジア大会だったが……。(C) Getty Images

 暗中模索の代表監督選考は、いくつもの矛盾や疑問符を生み出した。

「ドーハの悲劇」を経てJFA(日本サッカー協会)の強化委員会は「(ハンス)オフトでも修羅場の経験が不足していた」と総括し、後任に据えたのが1982年スペイン・ワールドカップで活躍したブラジルが誇る黄金のカルテットのひとり、ファルカンだった。現役を退いて間もないファルカンだが、既に同国代表監督も務めていたので、確かに「大舞台での経験値」という点では条件を満たしていた。

 強化委員会が描いたプランは、オフトを次期ワールドカップでの指揮官候補として残しつつ、1年間ずつふたりの監督を試して4年後へ向けて最適任者を選ぶというものだった。つまりファルカンは短期間での結果を求められ、そのリトマス試験紙になるのが秋に広島で開催されるアジア大会だった。

 だがファルカンがチーム作りを急ぐ様子はなかった。それどころか多くの若い選手たちを登用し、合宿でも個を鍛えることに焦点を絞っているように見えた。

 ファルカンは「時間が足りない」と洩らし、夏の合宿では1日に4部練習を組み込んでいる。ところが多くの時間を割いたのはフィジカルメニューだった。


 アジア大会で10番の重責を担うことになる当時22歳の岩本輝雄が振り返っている。
「ブラジルというとボールを使うイメージでしたが、物凄くフィジカルをやりました。昼間1000m走や10分間走が3~4本入り、その後に90分間ゲームをやるとか……」

 また21歳でアトランタ五輪代表のエース(本番前に故障)だった小倉隆史も語った。
「とにかくジウベルト・チン・フィジカルコーチの課すメニューはきつくて、ジャンプを繰り返すから、みんな肩が痛くなっていました。個々を伸ばして、その化学反応を見ていく。それがブラジルのやり方なんでしょうね」

 さらに名良橋晃には、クロスの練習を延々繰り返させて、とうとう本人が怒り出してしまったこともある。通訳を務めていたアデマール・マリーニョ(フジタ、日産で助っ人選手として活躍)が慌てて「それだけ期待しているんだから」と宥めたほどだった。
 

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