【あの日、その時、この場所で】川淵三郎/後編 日本中に根付いた緑のカーペット、夢のパイオニアとなった校庭(千葉・印西市立平賀小学校)

2019年11月16日 増島みどり(スポーツライター)

子どもたちを緑の芝で遊ばせる夢

平賀小のシンボルとも言うべき大榎の前で子どもたちと撮影。川淵三郎氏の“愉快でたまらない表情”が印象的な一枚でもある。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

 川淵三郎(82歳)は「きょうみんなと撮った写真、後でツイッタ―に載せるから日本中で見られるよ」と、ツイッタ―の更新を子どもたちに予告した。

 すると、忖度なしの答えが返って来る。

「なんだぁー、世界中じゃないんだぁ」

 ごく自然にそう口にするような子や、まるで友達のように肩に手を回して記念撮影をする子もいる。それを見ている先生の方が、「な、なんという事を……」と、恐縮していた姿とは対照的に。しかし川淵は伸び伸びと振る舞う子どもたちの様子を、愉快でたまらないと言った表情で見守っている。

 4年生の女の子は「未来のなでしこジャパン」として、どうしてもアピールしたかったのだろう。サッカーボールを抱え「リフティング、たくさんできます」と、駆け寄ってきた。

「凄いね、リフティングは何回くらいできるのかな?」と聞くと、「2000回です」ときっぱりと返され、「槍の川淵」もこれには、「参ったなぁ、ボクが日本代表の時だって、まぁ200回ちょっとだったからねぇ」と笑い出した。

 穏やかな晩秋の午後、千葉県印西市にある平賀小学校の校庭に、実に19年ぶりにここを訪問した当時のJリーグチェアマンと、詳細はよく分からないけれど、とにかくとても有名な人が来てくれるようだ、と、無邪気に出迎えた子どもたちが楽しそうに交流する声が響き渡った。今年創立30周年を迎える同校には、どこにもない贅沢な風景、芝の校庭と、樹齢30年を越える大榎(おおえのき)が揃っている。川淵は「大榎と芝の校庭の風景が、何より強く印象に残っていた」と、当時と変わらぬ校庭に安堵したようだった。

 Jリーグチェアマンとしてリーグ開始から走り続けていた2000年、この年2つの小学校で見た芝の校庭を「7年目の大発見だった」と表現する。

 日本代表の強化のために発足したプロリーグは、5年目の1998年フランスW杯出場で悲願を果たし、企業が主導してきたスポーツ界に「地域密着」といった新しい概念をも浸透させた。しかしこれらの成果だけではなく、サッカーに対してだけでもなく、子どもたちの未来に、プロを誕生させた価値を還元しようと、校庭緑化の理想を常に抱いていた。
 

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