CLプレミア決戦は遠い別世界の出来事ではない!? スパーズ&リバプールと日本の浅からぬ因縁とは?

2019年05月31日 加部 究

遥か雲の上の存在だったスパーズは、一時は日本代表に足をすくわれるまでに…

リバプールとトッテナムを代表するレジェンドたち。ジェラード(左)もリネカー(右)も来日して両クラブの一員として戦ったが、勝利は得られなかった。(C) SOCCER DIGEST/Getty Images

 トッテナム・ホットスパー(以下スパーズ)との関係を辿れば、日本サッカーの長い歳月をかけての成長がよく分かる。
 
 現在プレミアに在籍するクラブで最初に来日をしたのはアーセナル(1968年)で、当時日本代表コーチの岡野俊一郎氏(故人)によれば「熱狂したファンが国立競技場の柵を壊す」小さな事件が起こったそうである。その2年後には、今では吉田麻也が所属するサウザンプトンが、そして翌1971年にはスパーズが3チーム目として来日し、神戸で1試合、国立で2試合を行なった。

 
 初めてリーグカップ(FLカップ=当時)を制し、シーズン終了直後の5月末からの3連戦である。それでも比較的真剣モードで取り組んでくれたようで、スパーズは3試合いずれも30本以上のシュートを浴びせ、当時の換算レートで1億円を超える移籍が話題になったマーチン・チバースが3試合で5ゴールを奪うなど、6-0、7-2、3-0と力の差を見せつけた。またその夏、日本代表が欧州遠征に出た際には練習試合にも応じてくれて、7-2で圧倒したという記事が残っている。
 
 それから7年を経て、スパーズはクラブの歴史上でも大きな挑戦に出た。イングランドでは英国圏の選手ばかりがプレーしていた時代に、1978年ワールドカップの優勝メンバーだったアルゼンチン代表のオズバルド・アルディレスとリカルド・ビジャを獲得。とりわけアルディレスは間もなく現地では世界最高のMFとまで絶賛されるようになるのだが、翌79年には第2回ジャパンカップに参戦した。グループリーグでは、そのアルディレスの先制ゴールなどで日本代表に2-0で圧勝。期待通りに順調に勝ち進み、決勝でもダンディー・ユナイテッド(スコットランド)を2-0で下して優勝を飾った。
 
 さらにスパーズは1980年代後半にディエゴ・マラドーナの獲得にも動き、他にもグレン・ホドル、クリス・ワドルなどイングランドには珍しいテクニカルなタレントも在籍したから、もしこうした力を結集できていれば黄金時代を先取りしていた可能性もあった。
 
 しかし1991年、名称がキリンカップに変わっていた第12回大会では、スパーズはまるで"別の顔"を見せることになった。若手中心のメンバーにエースのガリー・リネカーが遠征先から合流して日本代表との最終戦に臨むが、コンディションの違いは明白。無抵抗のまま0-4の大敗で、日本代表初優勝の引き立て役に回った。もちろん来日ごとの事情が異なるので単純な比較は意味を成さないが、20年間を経て遥か雲の上の存在だったスパーズは、悪コンディションで気を抜くと日本代表にも足をすくわれる程度に近づき、その12年後には戸田和幸と契約するのだった。

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