【奥大介氏・追悼コラム】思い出される“大ちゃん”の原点と本質

2014年10月20日 寺野典子

萎みかけていた3年目に名将の下で浮上、A代表まで昇り詰める。

スタメン定着を果たした97年。後に世界一の監督となるルイス・フェリペ・スコラーリに見出され、ドゥンガ、サルバトーレ・スキラッチ、中山雅史といった国内外の偉大な先輩の背中を見て急成長を遂げていった。 (C) SOCCER DIGEST

  いつのことだったかは、思い出せない。
 
 正月を西宮の実家で過ごしていた時、尼崎に帰省していた彼から誘われて、彼の地元へ遊びに出かけたことがある。待ち合わせの場所に現われた彼と、彼の友だちが運転する車で向かったのは、サッカー場だった。
 
 当時、プロであり、日本代表でもあった彼、奥大介が地元の古い仲間たちの試合に飛び入り参加するというのだ。
 
「大丈夫や、絶対にバレへん」「いや、さすがにバレるやろ」「こっちのシャツのほうが目立たへんのちゃうか」
 
 試合前から、チームメイトは盛り上がった。そして当然、奥がボールを持てば、途端にバレてしまうのだが、それでも試合は90分間行なわれた。
 
「アカン、靴下が汗でビチョビチョや。俺、代えの靴下持ってないわ」
 
 スパイクの入ったコンビニのビニール袋。奥の荷物はそれだけだった。だから、試合後は裸足で靴を履いたけれど、日中とはいえ1月のこと。「寒い、寒い」と言いながら、奥は仲間たちと商店街を練り歩く。そして、たどりついたのはカラオケボックスの大部屋。気づけば、20人以上の友だちがそこに集まっていた。
 
 大好きな仲間と、大好きなサッカーに興じる。終わればビールで乾杯。勝敗に一喜一憂する必要もない。仕事ではなく、娯楽としてサッカーを楽しむ――。
 
 尼崎で、奥大介の原点に触れたような気がした。
 
――◇――◇――
 
「萎れて枯れかけていた僕に、フェリペがピュピュっと水を与えてくれたんですわ」
 
 1997年開幕スタメンを飾った彼が、そう何度も繰り返して笑った。クラブハウスと若手選手の寮を兼ねた磐田の誠和寮の応接スペースには、終始リラックスした空気が流れていた。
 
 94年にジュビロ磐田と契約し、晴れてプロ選手となったものの、1年目、2年目は出場機会がなく、3年目になってやっとプロデビューを飾れた。
 
 95年にはU-20代表としてワールドユース(現U-20ワールドカップ)にも出場していたが、当時磐田の指揮を執るハンス・オフトから、評価されることはなかった。チームの規律、組織サッカーを重んじる監督からは、いつも怒られた。相手を翻弄する得意なドリブルも封印を命じられた。自分のプロ人生はこのまま終わるんじゃないかと考えることもあった。
 
 そんな奥の元に現われたのが、フェリペ新監督だった。勝負に強くこだわるブラジル人がチームで指揮を執ったのは半年余りだったが、その間にレギュラーポジションを獲得。チャンピオンシップに勝利した97年以降、磐田の黄金期を支える存在へと奥は成長し、98年にはフィリップ・トルシエ率いるA代表にも選出された。

【写真で振り返る】奥大介氏の勇姿
 

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