【黄金世代・復刻版】小笠原満男がキャリアのすべてを語る「誕生、東北のファンタジスタ」(#1)

2018年12月29日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

小学校時代は、スピード溢れるドリブラーの点取り屋。

謙虚で素朴で実直で、時折少しだけ、内に秘めたる熱い闘志を発露する。どこまで飾らない男、小笠原満男。その素顔がここにある。写真:佐野美樹

【2017年6月に『サッカーダイジェストWeb』にて掲載。以下、加筆・修正】 

 いまから18年前、金字塔は遠いナイジェリアの地で打ち立てられた。
 
 1999年のワールドユースで世界2位に輝いたU-20日本代表。チーム結成当初から黄金世代と謳われ、のちに時代の寵児となった若武者たちだ。ファンの誰もが、日本サッカーの近未来に明るい展望を描いた。
 
 後にも先にもない強烈な個の集団は、いかにして形成され、互いを刺激し合い、大きなうねりとなっていったのか。そしてその現象はそれぞれのサッカー人生に、どんな光と影をもたらしたのか。
 
 アラフォーとなった歴戦の勇者たちを、一人ひとり訪ね歩くインタビューシリーズ『黄金は色褪せない』。
 
 今回は鹿島アントラーズの闘将、小笠原満男の登場だ。

 サッカーとの出会い、小・中・高の歩み、黄金世代の仲間との切磋琢磨、常勝軍団・鹿島への語り尽くせぬ想い、さらには、光と影が絶えず交錯した日本代表での日々まで──。深みのある独特の言い回しで、数多の金言や名エピソードを盛り込みながら、紆余曲折のキャリアを振り返ってくれた。
 
 焦がせよ、東北人魂!
 
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 およそ3か月ぶりに再会した小笠原満男は、ずいぶんと精悍な顔つきになっていた。
 
 時は1997年の夏、静岡・清水の草薙サッカー場だ。全日本ユースの1回戦、大船渡高校対清水市立商業高校の一戦が、いままさに始まろうとしていた。
 
 左腕に巻いたキャプテンマークの位置を確かめながら、チームメイトに発破をかけている。
 
 高3になってすぐ、小笠原は足首を傷め、サッカーボールを蹴れない日々を過ごした。責任感がひと一倍強い男だ。新主将となったもののチームのためになにもできず、もどかしさを抱えるなか、強く自己を律したという。
 
「いろんなひとに言われた。怪我をする前以上になって戻ればいいんだって。だからリハビリはけっこう頑張ってやったよね」
 

 その期間、上半身を重点的に鍛えたからだろう、身体が一回り大きくなったように見える。華奢でどこかひ弱だったイメージは一変し、短く刈り込んだ髪型もあいまって、ずいぶんとパワフルな印象を与えた。風貌はほぼ、現在のそれと変わらない。
 
 万全を期して復活を遂げ、全日本ユースの初戦に間に合わせてきた。やがて、選手入場。小笠原と並んで入場したのは、相手チームの主将、小野伸二だった。
 
「当時のキヨショウ(清水商)はシンジを筆頭にすごいタレント集団だった。あんなチームを向こうに回して、俺たちはどうしたら勝てるのか。みんなで何度も話し合った。小野伸二へのマークは1人じゃだめだから2人にしよう。それでも無理だったら? 3人で行く? そりゃさすがに無理だろう、みたいな。作戦会議をやってたね。
 
 スコアは接戦だったけど、内容的にはもうぜんぜん。シンジとは国体やインターハイでも何回か戦ったけど、一度も勝てなかったね。でもさ、東北から出てきてああいう強豪とやれて、すごく充実感があったし、楽しかったのを覚えてる」

 
 そう微笑を浮かべながら振り返る38歳のミツオ。だが、大一番に賭けていたのだろう。18歳のミツオは試合後、目を真っ赤に腫らし、涙がこぼれるのを必死に堪えていた──。

次ページいろんな遊びの中にも、大事な“学び”があった。

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