【回想コラム】急成長を遂げる五輪年代。北京世代の長友、岡崎が頭角を現わす転機となった一戦

2014年08月22日 浅田真樹

五輪代表の本来的な使命は、いかにA代表へ優れた人材を送り出せるか。

3戦全敗を喫した北京五輪だったが、人材供給という点でチームは一定の使命を果たしたと言える。(C) Getty Images

 各世代の代表選手たちが歩んできた過程には、知られざる様々なストーリーがある。『週刊サッカーダイジェスト』では、その軌跡に焦点を当てた浅田真樹氏のコラム「追憶のGeneration」を月1回で連載中。
 
 今回は、ザックジャパンの骨格を成した北京世代をテーマに、いまや欧州で5シーズン目を迎える長友や岡崎が頭角を現わすきっかけとなった「原点の一戦」のエピソードをお送りする。
(※『週刊サッカーダイジェスト』2013.8.6号より)
 
【北京五輪】日本代表メンバーを写真で振り返る
 
「アテネ経由ドイツ行き」
 
 そんな言葉で五輪世代の選手たちに具体的な目標を指し示したのは、2004年アテネ五輪代表で監督を務めた山本昌邦だった。
 
 五輪に出場することや、そこで上位に食い込むことはひとつの通過点に過ぎず、2年後に開かれるワールドカップへのステップにしなければ意味がない。つまりは、アテネ五輪経由でドイツ・ワールドカップへの出場を目指そう、ということだ。
 
 しかし、実際に「アテネ世代」で目標を達成できたのは、駒野友一と茂庭照幸の2名に過ぎない。
 
 しかも、ともに本大会では1試合(オーストラリア戦)に出場したが、右SBとして先発フル出場した駒野は、あくまでも負傷した加地亮の代役出場。茂庭は途中交代によるわずかな出場時間だけだった。
 
 五輪世代、すなわち、概ね20歳から23歳という若い選手たちにとって、わずか2年の間にA代表の一員となり、さらにはワールドカップに出場するということは、容易く達成できる目標ではなかったわけだ。
 
 ところが4年後、状況は一変する。
 
 2010年5月10日、南アフリカ・ワールドカップに出場する日本代表が発表されると、読み上げられた選手23名のなかに5名の「北京世代」が含まれていた。
 
 長友佑都、内田篤人、岡崎慎司、本田圭佑、森本貴幸。彼らは、いずれも2年前の北京五輪に出場した、すなわち「北京経由南アフリカ行き」を果たした選手たちである。
 
 単純に数だけを比べれば、4年前から3名が増えたに過ぎず、それほどのインパクトはないかもしれない。だが、5名の北京世代のうち、長友、内田、岡崎については、すでにワールカップ予選をレギュラー格として戦っていた。数だけでなく質のうえでも、そこにはアテネ世代との明らかな差があった。
 
 3戦全敗でグループリーグ敗退――。いかにも彼らは北京五輪で惨敗を喫した。しかし、A代表へいかに優れた人材を送り出すかという五輪代表の本来的な使命に関しては、十分に果たしたと言えるのではないだろうか。
 
 4年前のワールドカップの直前、私はそんなことを考えながら選出メンバーの顔ぶれを眺めていて、ふとある1試合に思いが至った。
 
 2007年6月6日に行なわれた、北京五輪アジア2次予選でのマレーシア戦である。

次ページ大きな意味を持っていた消化試合のマレーシア戦。

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事