【小宮良之の日本サッカー兵法書】 育成――環境を与え、我慢し、ハンデの先にある長所を見抜く

2018年09月30日 小宮良之

助けを求めた時に初めて、手を差し伸べる

少年時代にしっかりした指導を受けることは重要だが、その前に技術や創造性を自主的に身につけていることが前提だ。全てを「指導者から教わった」などというスターは存在しない。 (C) Getty Images

「育成」
 
 一口に言っても、簡単に為せることではない。人を育てるのに、絶対的正解など存在しないからだ。
 
 例えば、環境面を整備する。それは、決して悪いことではない。しかし、それが単純に技術の向上に結びつくか……。必ずしも、そうならない一面がある。
 
 世界で一番、高いスキルを身につけた選手が育っているのは、おそらく南米だろう。人の裏をかく、逆を取る。トリッキーな技を持っている。
 
 逆説的なのだが、彼らの多くは、子ども時代に恵まれた環境でボールを蹴っていたわけではない。悪路で質の悪いボールを懸命に蹴ることにより、卓抜とした技術を身につけているのだ。
 
 では、何もせずに放任すべきなのか。
 
 それはそれで、極論と言えるだろう。環境を与え、整える。それは、大人としての義務なのだろう。しかし、手をかければかけるほどに成長するわけではない、という現実も忘れてはならない。
 
 育成とは、ないものを与え、無理やり背伸びさせることではない。
 
 故事にこんな話がある。
 
≪苗を植えたが、なかなか伸びない。そこで少しでも成長させようと、一日中引っ張った。どうなったか? 翌日、苗は枯れていた≫
 
 笑い話のように思われるかもしれないが、人の成長もそういう部分がある。
 
 その故事においては、「浩然の気」について語られている。それは、天地のあいだに充満する気で、人間はこれを吸い、健全に、勢力的に活動することができるという。ここでは、助長、助力、という言葉が、むしろ余計なお世話として解釈されているのだ。
 
「どれだけ口を出さずに我慢できるか」
 
 スペイン人指導者で、そう洩らす人は少なくない。常に見守って、理解し、正しい評価を与えられるか。そのディテール次第と言える。
 
 サッカーというスポーツは、誰かの指導によって"上手くする"部分が限られている。特に技術的な部分は、自発的に練習するしかない。そこで行き詰って助けを求めてきた時に初めて、手を差し伸べる、というのが理想なのだ。

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