見る側から見られる側へ――昌子源が「頭の片隅」にもなかったW杯に抱く想い

2018年06月03日 小室功

熾烈な競争に埋もれ、サッカーから離れた時期もあった

「プロになった時に将来、ワールドカップに出られるような選手になれるとは思ってもいなかった」。昌子は正直にそう明かした。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)

 鹿島のディフェンスリーダーとして確固たる地位を築いた昌子源にとって、ワールドカップは「見果てぬ夢」どころか、「頭の片隅」にもなかった。
 
「本気でワールドカップに出たいと思い始めたのはつい最近のことですね。年代別の代表チームにほとんど絡んでいないし、プロになった時に将来、ワールドカップに出られるような選手になれるとは思ってもいなかった」
 
 謙遜でも何でもない。それが昌子の本音である。
 
 地元の神戸では、ちょっとは名の知られたサッカー少年だった。ところが、G大阪ジュニアユースに進むと、状況は一変する。関西一円からレベルの高い選手が集結し、熾烈な競争のなかで、いつしか埋もれていく。そしてついにG大阪ジュニアユースを辞め、完全にサッカーから離れた時期もあった。
 
 だが、何が幸いするか、わからない。
 
「正直、気が進まなかった」という米子北高(鳥取)への進学によって昌子のサッカー人生が再び動き出す。高校サッカー界特有の厳しさ(といっては少々語弊があるかもしれないが)のなかで鍛えられ、ピッチ内にとどまらず、人としての礼儀や振る舞いを学び、大きく成長していく。
 
「FWのままだったら、たぶんプロになれていなかった」と昌子自身も認めているとおり、飛躍のきっかけはCBへの転向と、鹿島の椎本邦一スカウト担当との出会いだ。「たまたま見た試合で、目に止まったのが昌子」と椎本スカウト担当は"偶然"を口にするが、ノーマークだったことにウソ偽りはない。
 
 プロ4年目にスタメンに定着し、周囲の評価を高めていったのは何より本人の努力の賜物だ。Jリーグやナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)、天皇杯での優勝を経験し、2016年のクラブワールドカップでは世界的なメガクラブ、レアル・マドリード(スペイン)と激突し、"世界2位"に上り詰めた。
 
 2015年3月31日のウズベキスタン戦で代表デビューを飾り、あれから3年、「頭の片隅」にもなかったワールドカップの舞台が目前に迫っている。「日本サッカーの歴史を塗り替えたい!」。昌子は、その一念で、ロシアの地に乗り込む。

 振り返ってみれば、サッカーの指導者である父・昌子力氏の影響で、小さいころから昔のワールドカップの映像を目にしていた。2002年の日韓大会では、小学校を早退して、神戸で行なわれた試合を父親と二人で見にいっている。
 

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