【Jリーグ25周年】パトリック・エムボマ~“浪速の黒豹”の愛称はこうして生まれた

2018年05月11日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

いま明かされる、その知られざる素顔

衝撃的なパフォーマンスを連発したエムボマ。ガンバでの活躍を分岐点に世界のトップシーンへと駆け上がった。(C)J.LEAGUE PHOTOS

 1997年春、編集部の電話が鳴った。声の主は、ガンバ大阪の広報部長だ。
 
 私はまだ駆け出しの編集記者で、ガンバの担当になったばかり。正直、当時の広報部長は少しばかり怖かった。新任の挨拶をした際、「サッカーダイジェストさんは前の前の担当も、前の担当も、(選手採点が)むちゃくちゃ厳しかったからね。君はお手柔らかに頼むよ」と釘を刺されていたからだ。
 
 おそるおそる電話口に出ると、やけにハイテンションな声色でこう問いかけられた。
 
「君のとこで使ってる"浪速の黒豹"やけど、あれをウチでも使っていいかな?」
 
 身構えていたこちらが拍子抜けするような内容だ。断る理由などないので、「ぜひぜひお願いします」と返答して、受話器を置いた。さして深くも考えずに付けたニックネームだったが、なんとガンバのお墨付きをもらい、その後、サッカー番組やテレビニュースなどでも多用され、一気に広まったのだ。パトリック・エムボマ自身が気に入ってくれたことが、なにより嬉しかった。

 
 パトリックがガンバにやってきたのは、97年の1月だ。日本では当初、無名選手のような扱いを受けていたが、とんでもない。フランスでも名の知れたストライカーだった。
 
 パリ・サンジェルマンの下部組織で英才教育を受け、下部リーグのシャトールーにレンタルで出されて大活躍。だが1994-95シーズン、パリに舞い戻った彼を待っていたのは度重なる不運な怪我だった。左膝の靭帯損傷に足首、ハムストリングと立て続けに傷め、思うように出場機会を得られない。翌シーズンにはメスに貸し出されて存在を示すも、ふたたび帰還したパリSGでは、当時のリカルド・ゴメス監督と衝突してしまう。将来を嘱望されながら、伸び盛りな20代前半に、彼はトップレベルでろくにプレーできなかったのだ。
 
 ちょうどメスに在籍していた頃だ。私は週刊サッカーダイジェストで「海外キロク」というページを受け持っていた。毎週フランス・リーグの試合結果と得点者を調べて打ち込むのだが、先輩にこれはなんと読めばいいのかと尋ねたのが「Mboma」の文字。協議の結果、「ムボーマ」に決まった。
 
 そのムボーマが一度、フランスの情報ページで取り上げられたことがあった。「パリSGのエースになってもおかしくない大器だったが、怪我ばかりしている。彼は"傷だらけのパンサー(豹)"だ」とレポートされていたのだ。なぜかそのフレーズをずっと覚えていて、勝手に新入団選手に愛称を付けるのが好きな私は、パトリックのガンバ入団が決まったときに即座に"浪速の黒豹"と命名した。「パリSGからやってくるムボーマは、ガンバの新エースになり得るタレントの持ち主。"浪速の黒豹"の大暴れに期待だ」と、紹介した記憶がある。
 
 余談だがその翌年、練習生からプロ契約を勝ち取って活躍した播戸竜二に"なみはやオーウェン"というニックネームを付けてみたが、まったく定着も広まりもしなかった。しょせん自分のセンスなどその程度だったのだ。

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