【黄金世代】第5回・本山雅志「愛するアントラーズになぜ別れを告げたのか」(♯4)

2017年12月07日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

シンジはシンジでスゴい。でも僕にとっての一番はやっぱり…

1998年、鹿島の同期入団6人組。左から本山、中田、中村、山口、小笠原、曽ケ端。いずれも当時のU-19日本代表だった。(C)SOCCER DIGEST

 鹿島アントラーズの門を叩いたのは、1998年の春だった。いくつかの選択肢の中から、「サッカーが巧くなりたいならアントラーズしかないと思った」という。
 
 同期入団は小笠原満男、中田浩二、曽ケ端準、山口武士、中村祥朗。すべて当時のユース代表選手で、後にも先にも、これだけの高卒スーパータレントを同時に獲得したJクラブは例がない。
 
 前々回のこの連載で、小笠原はアントラーズに入団すべきか悩んでいる時、背中をポンと押してくれたのが本山だったと明かしてくれた。当の本人に話を向けると「言ったかな、言ったかもしれない(笑)。だってミツオと一緒のチームでサッカーをやりたかったから」と恥ずかしそうに語り、実際に良い時も悪い時もずっと近くにいてくれたし、コウジ(中田)もソガ(曽ケ端)もそうですけど、あの3人には本当に支えてもらいましたから」と、感謝を口にする。
 
 アントラーズには足掛け17年在籍した。ジョーカーだった数シーズンを経て主軸となり、2002年にはビスマルクから背番号10を継承。以降、13年間に渡って栄光のナンバーを背負い、30代に突入してからもサポーターのアイドルであり続けた。獲得したタイトルは、14個に及ぶ。
 
 例えばルーキーで入団した当初、常勝軍団には豪華メンバーがずらりと顔を並べていた。本山はいったい誰にどんな影響を受けたのだろうか。
 
「それも、一番はミツオですね」
 
 即答だ。好きで好きでしかたがないのだ。
 
「いつも刺激をいっぱいくれましたから。マジで巧くて、いろんな蹴り方ができるんですよ。試合の動かし方とか、本当に絶妙で。傍らで見ながらすげーなぁって思ってましたもん。3冠を獲った年(2000年)だった。ビスマルクが、自分は守備はしない、前にいたいからって言ったんですよ。あのシーズンのミツオは熊谷(浩二)さんとコツコツ守備をやってて、巧いだけじゃない、献身的な動きでもチームに大きな影響をもたらしていた。僕の持ってないものを全部持ってるんですよ。シンジ(小野伸二)はシンジでスゴい。でも身近でずっと見てたぶん、僕にとってはミツオがナンバーワンなんですよ。だからいまはひとりで寂しい。ミツオはいいですよ、なんだかんだでコウジもソガも近くにいるわけですから」
 
 おまけに、秋田豊さんとのエピソードも添えてくれた。
 
「入団した頃から、練習ではいつも『来いよ、来いよ』って感じで、いつも当たって砕けろじゃないけど、相手してもらってましたね。なかなか突破させてもらえなかったんだけど、秋田さんが名古屋に移籍して、初めてJリーグの舞台で対戦することになった。もうガンガン行きましたよ。で、一回勝ちました。しっかり抜いてアシスト決めて。気合い入れすぎて強烈な切り返しをしたから、ここ(大腿部)を傷めちゃったけど。やっと恩返しができました」
 

次ページアレが帰化することになって、「ヤバいね。どうするよって話してました。シュンさんと

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