【黄金世代・復刻版】名手誕生~ボランチ稲本潤一はいかにして完成したのか(前編)

2017年08月18日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

U-12日本代表候補から落選、そして芽生えた強い自我。

中3の秋、G大阪ジュニアユース時代。ボランチながら背番号10を付け、チームを牽引していた。(C)SOCCER DIGEST

[週刊サッカーダイジェスト・2001年8月8日号にて掲載。以下、加筆・修正]
 
 いよいよガンバ大阪に別れを告げ、アーセナルへと旅立つ稲本潤一。エリート街道を突き進み、自身も「挫折を感じたことはない」と語るが、サッカーを始めてJリーグ最年少デビューを飾るまで、普通の少年と同じように、いくつかの岐路で葛藤を繰り返してきた。これは恩師の言葉を元に展開される"名手誕生秘話"にして、彼を支えたすべての人びとに贈る物語である(文中敬称略)。

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 川口道夫は悩んでいた。
 
 これだけ才能のある少年にどのような指標を示せばいいのか。地元の堺市には、彼が存分に力を発揮できる中学校サッカー部がない。我が子のことのように、思いを巡らせていた。
 
 すでに関西選抜に入るなど地域では、サッカー現場ではちょっとした有名人になっていた稲本潤一。当時12歳。いまでこそ強靭なフィジカルを誇るが、その頃は他の少年とさほど変わらぬ背丈で、少し太り気味だったという。ポジションはストライカー。青英学園サッカークラブの総監督である川口が、潤一の両親から入部を申し込まれてから、はや6年の歳月が流れていた。
 
 もちろん潤一にしてみても、自分がどれくらいのレベルにあるかなど、完全に把握はしていなかった。とりあえず、堺では誰にも負けない自信はあったし、全国にはもっと巧い選手がいることも承知している。そんな小6の秋だった。潤一は小学生で構成されるU-12日本代表候補の選考から漏れてしまう。ミニゲーム主体のテストは、ダイナミックなプレーが身上の彼にはやや窮屈だったのかもしれない。
 
 本人も意外だったのは、その落選にひどく落ち込んでしまったことだ。やがてもっと巧くなりたいと、強い自我が芽生えていた。その気持ちを誰よりも分かっていた川口は、だからこそ、親身になって潤一の未来に気を揉んでいたのだ。

次ページ未来をおもんぱかる恩師と、逸材探しに奔走するもうひとりの恩師。

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