【完全版】ドルトムント伝説戦士に問う!「Jリーグと日本人選手をどう評価していますか?」

2017年06月09日 羽澄凜太郎(サッカーダイジェストWeb)

ドルトムント怒涛の巻き返し。その中心に、シンジがいた。

DFBカップを制して16-17シーズンを終えた香川。本人にとって決して楽だったとは言えない1年間を、周囲はどう見ていたのか? クラブの要人であるリッケン(左)&リードレ(右)の両氏が語ってくれた。写真:佐藤明(サッカーダイジェスト写真部)

 1997年5月28日、ドルトムントとユベントスによるチャンピオンズ・リーグ(CL)決勝。舞台は、約6万人が詰めかけたミュンヘンのオリンピック・スタジアムだ。
 
 前年度の王者ユーベの大会連覇が有力視されるなか、その大願を阻んだのは、ドルトムントのふたりのドイツ人アタッカー、カール=ハインツ・リードレとラース・リッケンだった。
 
 当時エースとして君臨していたリードレは堅守のユーベから2ゴールを叩き出し、下部組織からの昇格まもない18歳の"ワンダーボーイ"リッケンは、70分から途中出場して、そのわずか16秒後に雌雄を決する一撃を決め、一気にスターダムを駆け上がった。
 
 ドルトムントに史上初のビッグイヤーをもたらした両英雄は、いまも愛するクラブの仕事に従事している。リードレ氏はグローバルアンバサダー、リッケン氏はユースアカデミーダイレクターという肩書だ。
 
 そんなふたりのレジェンドに話が聞く機会をもらった。今夏に埼玉スタジアム2002で開かれる浦和レッズ戦(7月15日)に向けたプロモーションのため、緊急来日。東京・本郷のJFAハウスを表敬訪問した。
 
 取材前日に日本に到着したというコンビは、時差ボケの影響からか少しだけ疲れた表情を見せつつも、我々の問いかけに対し、現役時代さながらの鋭い眼光を向けながら、真摯に答えてくれた。
 
 まずは2016-2017シーズンのドルトムントについて、おさらいしておこう。
 
 2冠を達成したユルゲン・クロップ政権時代からの主力だったマッツ・フンメルス(バイエルンへ)、イルカイ・ギュンドアン(マンチェスター・シティへ)、ヘンリク・ムヒタリアン(マンチェスター・ユナイテッドへ)がチームを去り、戦力は大幅にダウン。開幕直後の9月こそ無敗で凌いだものの、10月は3分け1敗の未勝利と停滞し、シーズン前半戦が終わった時点(16節)で6位と、エンジンはかからないままだった。
 
 ユースチームの統括と新戦力のスカウト業務もこなし、より現場に近い立場にあるリッケン氏も、「あの3人を失った時点でバイエルンを追い越すのは難題になった」と回顧する。
 
 さらに期待のニューカマーだったマリオ・ゲッツェとアンドレ・シュールレの故障にも悩まされた。このインタビューの前日に帰国した香川真司も、「(前半戦は)個人的にもチーム的にもすごく厳しい時期だった」と認めている。

 そんな散々たる前半戦だったにも関わらず、ドルトムントは最終的にブンデスリーガで3位、DFBカップ優勝という好成績を収めた。なぜ、復活を遂げられたのか。リッケン氏は、香川の存在が重要だったと力説する。
 
「いまやシンジは、生けるレジェンドといっても過言ではない。シーズンの後半戦、彼があれだけのパフォーマンスを発揮してくれなければ、カップ戦優勝と国内3位という結果は得られなかった。シュールレやゲッツェが怪我で満足に出られなかったわけだからね」
 
 DFBカップ決勝での躍動は記憶に新しく、来シーズンのCL出場権を一気に手繰り寄せたリーグ最終節での決勝点アシストなど、控えに甘んじていた前半戦が嘘のように、重要な一戦で光り輝いた。そのハイパフォーマンスは、リードレ氏も絶賛する。
 
「後半戦に入ってからぐんぐん調子が上がってね。随所で試合を決定付ける仕事をしていたし、ゴールもアシストも決め、じつにクレバーだった」

 

次ページユナイテッドでの日々は、香川を人間的に成長させた。

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事