ベルルスコーニ・ミランの31年(前編)「無名のサッキとカペッロ、オランダトリオで世界を席巻」

2017年04月18日 片野道郎

「素人の選択」と言われたサッキがサッカーに革命を起こす。

ベルルスコーニが抜擢したサッキの下、ミランはわずか2年半で世界の頂点に駆け上がった。写真:Alberto LINGRIA

 1986年2月、二度のセリエB降格を経て破産の危機にあったミランの経営権を買い取ったシルビオ・ベルルスコーニが最初にやったのは、ヘリコプターでミラネッロに乗りつけて、監督、選手、そしてスタッフの全員と食事を共にし、彼らに『カルティエ』の銀杯をプレゼントすることだった。
 
「この銀杯で皆さんとともに勝利の美酒を味わう日が遠からず来ることをお約束しよう」
 
 当時、不動産やマスコミなどの分野で飛ぶ鳥を落とす勢いだった50歳の実業家は、そこからの数年間で、それまでの常識を覆す大胆かつ斬新な試みを繰り返して、保守的なカルチョの世界を席巻。あらゆる意味で新しい時代をイタリア、そしてヨーロッパのサッカー界にもたらすことになる。
 
 当時の相場を大幅に上回る資金を投じて、ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトの「オランダトリオ」をはじめとするトッププレーヤーを次々と買い集めると、当時はセリエBのパルマで指揮を執っていた無名の若手監督アリーゴ・サッキを抜擢してそのチームを委ねる。セリエAでの実績どころかプロ選手としての経験すら持たない指揮官の起用を見たマスコミは、ベルルスコーニを素人扱いして批判した。
 
 しかしサッキは、ゾーンディフェンスの4-4-2によるプレッシングサッカーという、当時としては最先端の戦術をチームに根付かせ、就任1年目の1987-88シーズンに「ディエゴ・マラドーナのナポリ」を終盤戦の直接対決で下して逆転でスクデットを勝ち取る。その翌年にはチャンピオンズ・カップ(現CL)でも優勝し、さらに89年12月のトヨタカップを制して、わずか2年半で世界の頂点まで駆け上がった。
 
 サッキがミランで実現した4-4-2のプレッシングサッカーは、1970年代初頭の「ヨハン・クライフのアヤックス&オランダ代表」によるトータルフットボール以来、20年ぶりにサッカーの世界を揺るがせた戦術革命だった。

次ページ監督経験がほぼ皆無だったカペッロの博打も当たる。

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事